歴史故事を歌う葬送歌(承前)

楽府詩「梁甫吟」の成立は、宴席においてであっただろうと昨日述べました。
この推定は妥当でしょうか。

「梁甫吟」は、三国蜀の諸葛亮が愛唱したことで知られています。
(『藝文類聚』巻19では、彼の作であるかのような記し方をしています。)
世話になった従父を亡くし、自ら農耕に従事していた彼が、この歌を好んで吟じていたと、
『三国志』巻35・諸葛亮伝には記されています。

そうした歌辞が宴席文芸であったとは、何かしっくりこない印象を持たれるかもしれません。
それでもやはり、この古楽府(詠み人知らずの楽府詩)は宴席で誕生したと見るのが最も妥当です。
そう考え得る根拠を以下に述べます。

まず、便宜上、この楽府詩の本文のみを再掲しておきましょう。

歩出斉城門、遥望蕩陰里。里中有三墳、累累正相似。問是誰家冢、田疆古冶子。
力能排南山、文能絶地理。一朝被讒言、二桃殺三士。誰能為此謀、国相斉晏子。

この1・2句目、及び結びの2句は、次にあげる古詩を明らかに踏まえています。
古詩とは、漢代詠み人知らずの古典的五言詩で、
ここでは、最も閲覧しやすい『文選』巻29所収の「古詩十九首」で示すこととしましょう。

まず、「梁甫吟」の冒頭2句は、次に示す其十三の冒頭2句とよく似ています。

駆車上東門  車を上東門(後漢の都洛陽に実在した城門)に駆り、
遥望郭北墓  遥かかなたに城郭の北に横たわる陵墓群を望む。

また結句は、其五に見える次の2句と同じ措辞を取っています。

誰能為此曲  誰がこの曲を奏でて歌うことができるかといえば、
無乃杞梁妻  それはかの杞梁の妻ではないだろうか。

ここに挙げた古詩はいずれも、
数ある古詩の中でも、特に別格視されてきた一群に含まれるもので、
後漢時代の初めごろには成立していたと推定できます。
こちらの著書4『漢代五言詩歌史の研究』の第1~3章をご参照いただければ幸いです。)

そうした古詩が、複数、「梁甫吟」という古楽府に流入しているのですね。
このことをどう見るか。

まず、「梁甫吟」から、複数の古詩が派生したとは考えにくいです。
これは、先に述べた、かの特別な一群の古詩が持つ普遍性から見ての判断です。

それよりも、特別な古典的古詩の一群が出そろった段階で、
それらの中から選び取った表現を複数組み合わせて「梁甫吟」が成ったと見る方が自然です。

だとすると、古楽府「梁甫吟」の成立は、後漢時代だと推定できます。

後漢時代、宴席という場では、古詩と古楽府とが出会い、
古詩に似た古楽府、古楽府の歌辞を取り込んだ古詩が陸続と誕生していました。
(詳細は、学術論文30(前掲拙著第5章にも収載)をご参照いただければ幸いです。)

古楽府「梁甫吟」も、こうした文芸的新動向の中で、
「梁甫吟」のメロディと、複数の古詩と、そして歴史故事に基づく語り物文芸という、
宴席という場を共有する、三種の文芸が出会って生まれたものだと推し測ることができます。

なお、以上のことはこちらの学会発表17で概略を述べました。
ですが、中国の研究者の方々にはほぼスルーされてしまいました。
古詩や古楽府の歴史的位置に対する捉え方が異なるので、当然と言えば当然ですが。

それではまた。

2019年12月4日