焦先という人がいた。

漢魏晋楽府詩一覧に、歌謡全般を追記していく作業の中で、
焦先という、なつかしい人物に再会しました。
(かつてこの論文(学術論文41)で言及したことがあるのです。)

魏が呉を討伐することについて人々に問われ、
敢えてそれには答えず、「謬歌」したというその歌辞は、

祝衂祝衂、非魚非肉。更相追逐、本心為当殺牂羊、更殺其羖䍽邪。
(『三国志』巻十一「管寧伝」裴松之注引『魏略』より)

このようによくわからないものです。
当時の人々も意味が取れず、あれこれと詮索したらしい。

後漢末の動乱の中で、家族を失い、
衣類も満足になく、かたつむりのような自作の家で暮らす彼は、
もし現代に生きていたら、福祉政策の対象とされていたかもしれません。

ですが、それとは異なる人間関係の中で、彼は生きていました。

旧知の人は、彼のことを、逃亡者ではない「狂痴の人」なのだと役人に説明した。
これによって彼は連行されることなく、戸籍が与えられ、
埋葬の仕事や落穂拾いなどをして生計を立て、八十九歳まで生きました。

周囲の人々は、焦先と自分たちとの間に線を引いたりせず、
集落の中に、彼の居場所を設けた。そればかりか、
彼の一見不可解な言動に、自分たちには計り知れぬ意味を見出そうとした。

前掲の『魏略』のほか、
皇甫謐の『高士伝』(『三国志』管寧伝裴注引)にも焦先への論及があります。

一見“普通”から浮きあがる人のことを隠者とみる当時の文化。
これは、社会はさまざまな人から成り立っていて、
それぞれに天から与えられた使命があると見る考えに基づくのでしょう。

同質な人々が集って、そこから少しでも外れる者は疎外される現代の日本社会。
そこに、大昔の中国を移植すれば、などとは毛頭思っていませんが、
それでも、古のことを知れば現代を相対化できる、
それは確かなことだと言えます。

なお、福祉政策が不要などと主張しているのでは全くありません。
言うまでもないことですが。

それではまた。

2019年7月8日