王昭君故事の摂取

こんばんは。

一昨日述べたように、平安朝の『千載佳句』や『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』には、
「王昭君」と題する、独立した部立てが設けられているのでしたが、
そこに収録されている中国の詩は、それぞれ一首ずつです。

平安朝の人々は、漢詩を通して王昭君に親しんでいたのではなさそうです。

では、当時の日本人は、
王昭君の故事を、何によって摂取し、
独立した部立てを準備しようとまで考えたのでしょうか。

思うにそれは、絵を介してではなかったかと考えます。
『源氏物語』絵合に、光源氏の言葉としてこのように見えています。

長恨歌・王昭君などやうなる絵は、おもしろく、あはれなれど、
事の忌あるは、こたみはたてまつらじ。(岩波書店・日本古典文学大系による)

変文という、絵と言葉とから成り立っている、紙芝居様の文芸様式があります。
そして、「王昭君変文」は現代にも伝わっています。*1
もしかしたら、この変文が遣唐使たちによって日本にもたらされ、
それが、平安貴族たちに親しまれていたのかもしれません。

なお、日本に渡来した唐代の変文が、
王朝物語文学の誕生の契機となったのではないか、との説もあります。*2

2020年10月22日

*1 黄征・張涌泉『敦煌変文校注』(中華書局、1997年)p.156―173
*2 岡村繁「物語文学の成立と唐宋の説話文学」(『国語の研究(大分大学)』10号、1977年)