疑問氷解(曹植「惟漢行」)

こんばんは。

曹植「惟漢行」の読みで、ずっと不明瞭だったところが、本日ぱっと見通せました。
それは、以前にも触れたことのある本詩の結び、以下に示す部分です。

在昔懐帝京  在昔 帝京を懐ふに、
日昃不敢寧  日の昃(かたむ)くまで敢へて寧(やすん)ぜず。
済済在公朝  済済たるは公朝に在り、
万載馳其名   万載 其の名を馳す。

まず、3行目の「済済」は、『詩経』大雅「文王」にいう、

済済多士  威厳をもって居並ぶ人士たち、
文王以寧  
これでこそ文王の御霊も安寧だ。

を踏まえると見るのがやはり妥当です。

先には、「済済」が文王のあり様を形容する、『詩経』大雅「棫樸」を踏まえるかと考えましたが、
今これを取り下げ、再び「文王」を活かします。

というのは、その前の句「日昃不敢寧」の「寧」にも、
前掲『詩経』大雅「文王」が影響を及ぼしていると見られるからです。
ただし、『詩経』では「文王は以て寧(やす)らかなり」と詠じているところが、
曹植詩はこれを反転させ、「敢へて寧んぜず」としています。
これはいったいどういうことでしょうか。

そこで、「日昃不敢寧」の語釈として新たに追補したいのが、
『史記』巻四・周本紀に、同じ周文王の仕事ぶりについて記す次の記述です。

礼下賢者、日中不暇食以待士。士以此多帰之。
 (周文王は)礼儀正しい態度で賢者にへりくだり、
 日が高く昇るまで食事をする時間も惜しんで優れた人士をもてなした。
 人士たちは、これによって多く周文王に帰順することとなった。

『書経』無逸篇にいう「自朝至于日中昃、不遑暇食」だけでは、
周文王が、どのような仕事に対して、寸暇を惜しんで励んでいたのかが不明瞭ですが、
この『史記』周本紀の記述と併せて読むならば、それが明らかとなります。

周文王は、人材登用という仕事に対して「敢へて寧んぜず」であった、
つまり、現状に満足することなく、優れた人士の招聘に努め続けたということです。

以上を踏まえて、先の四句を次のように通釈し直します。

その昔、帝都の有り様を懐かしく思い起こせば、
今は亡き先代は、日の傾くまで休息もせず、人材登用に努めたものだ。
その結果、大勢集まった人士たちが、威厳をもって朝廷に居並び、
永遠にその名声を馳せることとなったのだ。

ここにいう「今は亡き先代」とは、
『書経』無逸篇を記した周公旦から見ての先代、すなわち周文王であり、
同時に、今、周公旦に自らを重ねている曹植から見ての先代、すなわち曹操を指します。

2020年8月13日