若き貴公子の歌なのか

曹植の「薤露行」「惟漢行」は、曹操「薤露」を踏まえるものでした。
曹操「薤露」は、魏王朝の宮廷歌曲「相和」の中の一曲です。

では、曹植は他の「相和」にも独自の歌辞を作っているのかといえば、
上記の2篇以外では、次にあげる「平陵東」のみです。

閶闔開      天門が開き、
天衢通      天上界の大通りが眼前にひらけ、
被我羽衣乗飛龍  羽衣を着せ掛けられた私は、飛ぶ龍に乗る。
乗飛龍      飛ぶ龍に乗って、
与仙期      私は仙人と約束をしているのだ、
東上蓬莱采霊芝  東のかた蓬莱山に上って霊芝を取ろうと。
霊芝採之可服食  霊芝はこれを取って服食するがよい、
年若王父無終極  すると、東王公のように無限の長寿となるのだ。

魏朝で歌われた古辞「平陵東」は、
前漢末、王莽に抵抗して挙兵し、殺害された翟義(『漢書』巻84・翟方進伝附翟義伝)を悼み、
その門人が作ったと伝えられています(『楽府詩集』巻28に引く西晋・崔豹『古今注』)。

ところが、曹植のこの楽府詩には、そうした内容は継承されていません。
ご覧のとおり、曹植は「平陵東」という楽府題を掲げながら、
その内容は、もっぱら神仙世界を詠ずるものです。

この点では、彼の「薤露行」と同じスタンスを取ると言えるかもしれません。
それは、挽歌としての内容を消し去り、もっぱら輔政や著作への抱負を詠じていたのでした。
曹操の「薤露」と句数を同じくしていること、そこから推測されることについても、
すでに先に述べたとおりです。

曹植の「平陵東」は、
「相和」の一曲として宮中で歌われた古辞とは句の数が異なっていますが、
もし、長短を調整することができる構成の歌曲であったのならば、
「相和・平陵東」と同じメロディに載せるべく作られた歌辞なのかもしれません。

特別な宮廷歌曲「相和」の一曲にこうした歌辞を載せたということに、
魏王国の中で、自由気ままに振る舞う若き貴公子の姿を垣間見るようです。

もっともこれは私見であって、本詩の成立年代は不明です。
趙幼文『曹植集校注』は、魏の明帝の太和年間に繋年していますし、
曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)は、本詩の背後に鬱屈した気を読み取ろうとしています。

それではまた。

2019年12月16日