論の競作

こんばんは。

これまでに何度か言及してきたように、
たとえばこちらなど。よろしければサイト内検索もどうぞ。)
周公旦という人物は、曹植にとって生きる上での指針、理想的古人でした。

この周公旦に多く言及する文章として、
「成王漢昭論」(丁晏編『曹集詮評』巻9)があります。

趙幼文『曹植集校注』巻1は、
この題目を「周成漢昭論」と訂正すべきであると指摘します。
いずれも幼くして即位した、周の成王と漢の昭帝とを合わせ論じた評論、の意です。
(たしかに、こちらの方がバランスがよいです。)
趙幼文氏は、この判断の根拠として、
曹丕・丁儀に「周成漢昭論」と題する文章があって(『藝文類聚』巻12、『太平御覧』巻89)、
これらと、先に挙げた曹植の「論」との関連性を挙げています。

この時代の宴席では、実に様々な文芸活動が行われていましたが、
そうした活動のひとつとして、この論題のような歴史談義も行われていたでしょう。

以前、五言詠史詩の生成過程を論じて、
宴席で行われていた歴史故事の語り物(もしくは演劇)に加えて、
『文選』巻21所収の、「三良」を詠じた詠史詩のように、
歴史に材を取る談論も、その素材となっていったであろうことを述べましたが、
(こちらの学術論文№42をご覧いただければ幸いです。)
彼らの「周成漢昭論」も、それと同様な生成経緯をたどって誕生したのかもしれません。
片や論、片や五言詩ですが、生成の場が同じではないかということです。

この三篇の「論」は、もしかしたら同じ機会に作られたのではないか。
もしそうだとすると、作者たちの居合わせた場というものに、
なかなか興味深いものを感じます。

『三国志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』によると、
曹丕は、父曹操がその娘(曹丕の妹)を丁儀に嫁がせることに異議を唱え、
丁儀は、このことで曹丕に恨みを持っていたといいます。
丁儀は、親密な間柄である曹植を、曹操の後継者として強く推しましたが、
それには、上述のような経緯も深く絡んでいたと思われます。

そんな三人が一堂に会して談論を繰り広げるようなことがあったとするならば。
建安文壇のスリリングな一断面を想像して慄きますが、
ともあれ、まずその本文を読んでから改めて考えたいと思います。

それではまた。

2020年4月6日