論理と感性(「野田黄雀行」考)

こんばんは。

以前、こちらでも取り上げたことがある曹植「野田黄雀行」について、
余冠英「建安詩人代表曹植」(『漢魏六朝詩論叢』)は、
この詩の背景に丁儀・丁廙兄弟の処刑があるとした上で、こう解釈していました。

自分(曹植)には丁氏兄弟を救うことができないので、
他の人にそれを期待しているということを詠じているのだ、と。

私はこれまで、大上正美氏の説に賛同し、
本詩は、友人を救えなかった曹植の仮構を詠ずるものだと捉えてきました。
[05-02 野田黄雀行]の「抜剣捎羅網」の語釈をご覧ください。)
余冠英氏の説は、これとは異なるものです。

そこで、他の注釈者の説を見直してみたところ、
黄節『曹子建詩註』、趙幼文『曹植集校注』は、余冠英と同じ方向で捉え、
曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)だけは次のように解釈していました。

本詩は、比喩的手法と物語的叙述を通して、
自身に友人を救う手立てがないことへの悲憤を描いている。
少年が窮地に陥った黄雀を救出したのは、実は作者の幻想を詠じたものだ、と。

自身は友人を助けられないから、人にそれを期待するのか、
自身が友人を助けられなかった苦しみから、それができた自身を幻視するのか、
この両者ではまるで捉え方が違っています。
私は断然後者の方がよいと感じますが、このことを証明できるでしょうか。
ある地点までは論理的に詰めることができても、
そこから先は感性でこそ越えられる境界線があるようにも思えます。

2020年10月24日