阮籍の「磬折」と曹植詩(承前)

こんばんは。
昨日の続きです。

阮籍「詠懐詩」に用いられた「磬折」は、
直接『尚書大伝』から引き出されたものではなく、
曹植の「箜篌引」に触発されて出てきた語だと私は見ます。

曹植詩では、「磬折」する人を軽くいなしていました。
阮籍「詠懐詩」は、その「磬折」の嫌らしさを明るみに出している、
曹植詩が含んでいたかすかな陰影を増幅して見せているように思うのです。

思えば漢代、詩歌を作る人は、
基本的に、宴席で「磬折」する立場にある人でした。
たとえば、「古詩十九首」其四(『文選』巻29)にはこうあります。

今日良宴会  今日のこの良き宴、
歓楽難具陳  その歓楽は、とてもつぶさには述べ尽くせないほどだ。
弾箏奮逸響  箏が爪弾かれて、絶世の音が勢いよく鳴り響き、
新声妙入神  今様の楽曲の妙なる音が深く心に染み入る。
令徳唱高言  今、すばらしい徳の持ち主が高雅なる言葉を朗誦するから、
識曲聴其真  本曲を知る者は、そこに込めた真実の声に耳を傾けてくれ。
斉心同所願  誰しもが同じ気持ちで同じことを願っているが、
含意倶未申  その思いを内に秘めながら、皆それを口にできないでいるのだ。
人生寄一世  人は生まれて一世に身を寄せ、
奄忽若飆塵  そのはかなさは、まるでつむじ風に吹き上げられる塵埃のようだ。
何不策高足  ならばどうして俊足の馬に鞭打って、
先拠要路津  まずは要路に位置する渡し場に足がかりを求めないのか。
無為守窮賤  もうやめよう、いつまでも先の見えない低い地位に甘んじて、
轗軻長苦辛  思うに任せぬ境遇に長く苦しむことは。

ここには、「磬折」という語は見えていません。
けれども、宴で詩歌を朗詠している人は、有力者に伝手を求める立場にある、
つまり、有力者に恭順の姿勢を取る人と、基本的には同じ立場にあるということです。

そうした境遇にある人のことを、客体化し、詩に詠ずるということは、
文壇の主催者が詩文の創作者でもある、という状況があってこそ可能でしょう。
そうした状況は、建安文壇に始まるのではなかったでしょうか。*

2022年4月7日

*かつて「貴族制の萌芽と建安文壇」(『魏晋南北朝における貴族制の形成と三教・文学―歴史学・思想史・文学の連携による―(第二回日中学者中国古代史論壇論文集)』汲古書院、2011年、pp.281―291)で、このことについて見通しを述べたことがある。