魏の宮廷音楽「相和」再考

先日来取り上げてきた「薤露」や「平陵東」は、
このところ頻繁に言及している、魏王朝の宮廷歌曲「相和」に含まれるものです。
「相和」と総称される歌曲の歌辞は、『宋書』巻21・楽志三に採録されています。
今、そこに列記された順に、楽府題・歌辞名(第一句)、作者名を示せば次のとおりです。

01 「気出倡・駕六龍」 曹操
02 「精列・厥初生」 曹操
03 「江南・江南可採蓮」 古辞
04 「度関山・天地間」 曹操
05 「東光乎・東光乎」 古辞
06 「十五・登山有遠望」 曹丕
07 「薤露・惟漢二十二世」 曹操
08 「蒿里行・関東有義士」 曹操
09 「対酒・対酒歌太平時」 曹操
10 「鶏鳴・鶏鳴高樹顛」 古辞
11 「烏生・烏生八九子」 古辞
12 「平陵・平陵東」 古辞
13 「陌上桑・棄故郷」 曹丕
14 「陌上桑・今有人」 『楚辞』九歌・山鬼
15 「陌上桑・駕虹蜺」 曹操

作者は、魏の創始者である武帝曹操、初代皇帝である文帝曹丕、
及び漢代詠み人知らずを意味する「古辞」によって占められています。
ここから、「相和」が魏王朝にとって特別なものであったと推察することができます。

とはいえ、その歌辞の内容は、実に統一感のないものであって、
誰かがある意図をもって諸歌曲の中から選び抜き、編集したとはとても思えません。

では、この無秩序とその尊重のされ方とを、合わせてどう捉えればよいのでしょうか。

これらの歌曲は、魏王朝の宮廷歌曲となる以前から、
すでにまとまったかたちで演奏されていたのではないかと私は見ています。

というのは、後漢中期の馬融(79―166)「長笛賦」(『文選』巻18)の序文に、
次のような記述があるからです。*1

有雒客舎逆旅、吹笛為気出精列相和。融去京師踰年、蹔聞、甚悲而楽之。
ある洛陽からの旅人が宿に泊まり、笛を吹いて「気出」「精列」の「相和」を演奏した。
都を離れて一年以上になる私は、しばしこれを耳にして、すっかり感傷的な気分に浸りきった。

ここにいう「気出」「精列」は、前掲の『宋書』楽志三に記す諸歌辞の冒頭の二篇であり、
それを受けて「相和」と言っているところが注目されます。

もし、「相和」が漢代から歌い継がれてきたものであり、
魏国はそれをそのまま取り上げた、

それが、魏王朝成立後、宮廷音楽として演奏されるようになった、
と考えればどうでしょう。

各曲の内容に一貫性がない、にもかかわらず重要視されている、
このことの理由が見えてきます。

以前、魏王朝は、自らの箔付けのために「相和」を利用したと考えていたのですが、*2
(ちょっと皮肉っぽい、魏王朝に対して厳しい見方ですね。)
前掲の馬融「長笛賦」に述べるように、「相和」は洗練された歌曲群であったらしい、
このことを踏まえると、また違った見方ができるかもしれません。

後漢王朝の内に封土を与えられた魏国の君主たる曹操は、
都ぶりの優美な楽曲群である「相和」諸曲を大切に取り上げて演奏させ、
あるものについては、その曲に合わせて独自の歌辞まで作った、

魏の宮廷歌曲「相和」は、それをそっくり引き継いだものだ、
と捉えることもできます。

それではまた。

2019年12月18日

*1 詳しくは、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書№4)p.333~335をご参照いただければ幸いです。
*2 こちらの学術論文№19、及び柳川前掲書のp.316~341に詳述しています。