2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻14「劉曄伝」裴注引『傅子』:曹操の時代、魏諷は名声が高く、卿以下皆が心を傾けて彼と交際したがった。その後、孟達が劉備の下を去って文帝に帰属し、論者は多くこれを楽毅の器量ありと称賛した。だが劉曄は魏諷・孟達を一目見て、謀反を予言し、いずれもそのとおりとなった。2-p.446*, 3-p.055** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻1「武帝紀」:九月、相国の鍾繇が、西曹掾の魏諷(同巻裴注引『世語』及び王昶『家誡』に魏諷に関する記述あり)が反したのに連座して免官となった。1-p.52*, 1-p.114** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻19「陳思王植伝」裴注引『世語』:楊修、年二十五の時、名族出身で才能があったことから、曹操に尊重された。丁儀兄弟と曹植を跡継ぎにしようとしたが、太子はそれを心配し、呉質を壊れた行李に潜ませて相談した。楊修はこのことを曹操に告げたが、取調べには至らなかった。呉質は空の行李を用いて、曹操が楊修を疑うように仕向けた。……曹植のために曹操の意を忖度し、あらかじめ回答を準備しておいた。曹操にこのことを知られ、殺された。2-p.560*, 3-p.301** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻19「陳思王植伝」裴注引『典略』:(建安)二十四年秋になって、曹操は、楊修が何度も言教を漏らして、曹植と関係を持ったことを理由に、これを捕らえて殺した。……楊修の死後百余日で曹操が薨じ、太子が立って、天下を治めることになった。2-p.560*, 3-p.300** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻19「陳思王植伝」裴注引『魏氏春秋』:曹植が曹操のもとに行こうとしたところ、曹丕が飲ませてむりやり酔っ払わせた。曹操は曹植が王命を受けられなかったことに対して怒った。2-p.561*, 3-p.303** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻19「陳思王植伝」:曹仁が関羽に包囲されると、曹操は曹植を南中郎将に任命し、征虜将軍を兼任させ、曹仁を救出させるために曹植を呼び出し訓戒しようとしたが、曹植は酔っ払っていて命を受けることができなかったので、それを取りやめた。2-p.558*, 3-p.293** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻17「于禁伝」:曹操は長安におり、曹仁を派遣して関羽を樊に討伐させたとき、于禁に曹仁を助けさせた。秋、大雨が降り、于禁らの軍隊は皆水没し、かくして関羽に投降したが、ただ龐悳のみは屈せずに死んだ。曹操はこれを聞くと、久しく哀歎して、「私は于禁を知って三十年になるが、危機に臨んで龐悳に及ばないとは思いもしなかった」と言った。2-p.524*, 3-p.226** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻10「曹真伝」:曹操が長安に戻るのに従い、中領軍に拝せられた。この時、曹操は夏侯淵が陽平にて没したのを憂え、曹真を征蜀護軍として徐晃らが劉備の別将高詳を陽平にて破るのを監督させた。曹操は自ら漢中に至り、曹真に武都まで曹洪らを迎えに行き、陳倉に駐屯するよう命じた。1-p.281*, 2-p.166** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻9「曹休伝」:曹操が漢中を抜き、諸軍が長安に戻ると、曹休を中領軍に拝した。1-p.279*, 2-p.163** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻47「呉書・呉主伝」:孫権は内心では関羽を恐れていたが、自分の功績を外に向かって示したいと思い、曹操に書状を送って関羽討伐を申し出た。曹操は関羽に孫権と戦わせようとして、孫権の書簡を駅伝で送り、曹仁に弓で射って関羽に示させた。5-p.1120*, 6-p.084**