2020年 一覧情報 2020年12月08日 初平04年(193)39歳:巻1「武帝紀」:この年、孫策は袁術の命を受けて長江を渡り、その後、数年間で江東を手に入れた。1-p.11*, 1-p.028** 2020年12月08日 初平04年(193)39歳:巻18「李典伝」:李乾(李典の従父)、曹操が袁術を撃つのに従い、徐州を征伐する。2-p.533*, 3-p.241** 2020年12月08日 初平04年(193)39歳:巻1「武帝紀」:下邳の闕宣が、衆数千人を集めて自ら帝を称し、徐州の牧、陶謙はこれとともに挙兵、泰山の華・費を取り、任城を侵略した。秋、曹操は陶謙を征伐しようとして十余城を下すも、陶謙、城に立てこもる。1-p.10*, 1-p.028** 2020年12月08日 初平04年(193)39歳:巻1「武帝紀」:春、曹操は鄄城に陣取った。荊州の牧、劉表が袁術の糧道を断ち、袁術は軍を率いて陳留へ入り、封丘に駐屯。黒山の残党及び於夫羅らがこれを助けた。袁術は、その将劉詳を匡亭に駐屯させた。曹操は劉詳を撃ち、袁術が救援したが、合戦して曹操が大勝し、袁術は退却して封丘に立てこもった。曹操はこれを包囲して、いまだ包囲網が出来上がらないうちに、袁術は襄邑へ走った。曹操はこれを追撃して太寿まで至り、渠水を決壊させて城に注ぐ。袁術が寧陵に走るのをまた追いかけ、袁術は九江に走る。夏、曹操は、軍を定陶に戻した。1-p.10*, 1-p.028** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻1「武帝紀」裴注引『英雄記』:袁紹は、後に袁遺を揚州刺史としたが、袁術に敗れた。曹操は袁遺を称賛して、「長大となりても能く学に勤むる者は、惟だ吾と袁伯業(遺)のみ」と。語は文帝『典論』にあり。1-p.7*, 1-p.020** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻56「呂範伝」裴注引『九州春秋』:初平3年、揚州刺史の陳禕が没して、袁術が陳瑀を揚州牧にする。後に、袁術が曹操に封丘で敗れ、南人は瑀に反し、瑀が攻防した。5-p.1310*, 7-p.175** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻26「満寵伝」:曹操が兗州を治めるようになったとき、満寵を辟して従事とした。3-p.721*, 4-p.155** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻24「高柔伝」:高柔(陳留の人)は、邑中の人々に「今英雄が並び起こり、陳留は戦乱の地となっている。曹将軍(曹操)は兗州を本拠地としているが、四方を支配しようとする意図を持っており、安閑としてはいないだろう。一方、張府君(張邈)は先に陳留を制覇したが、いずれ動乱が起きるのではないか。諸君とともに避難したい」と言った。衆人は皆、張邈は曹操と仲がよいと思っていたし、高柔は年少でもあったので、その言葉に同意するものはいなかった。3-p.682*, 4-p.072** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻13「鍾繇伝」裴注引『世語』:曹操は従事の王必を使者として天子に気持ちを伝えさせた。2-p.392*, 2-p.449** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻13「鍾繇伝」:漢帝は西京にあり、李傕・郭汜らが長安中を荒しまわり、関東とは断絶していた。曹操は兗州牧となってからやっと使者をやって上書したが、傕・汜らはこれをまともに取り上げなかった。鍾繇は傕・汜らに、「今まさに英雄が並び起こり、それぞれ天子の命と偽って勝手なことをやっている。ただ曹兗州だけが心から王室のことを思っている。その忠義に逆らうとは将来の望みにかなうやり方ではない」と説いた。傕・汜らは鍾繇の言葉に従い、曹操に対して手厚く応答した。これにより曹操は使節を通ずることができるようになった。曹操は荀彧からしばしば鍾繇を称賛するのを聞いていたが、またこの李傕・郭汜への進言を聞き、いよいよ彼に対して虚心になった。2-p.391*, 2-p.445**