2020年 一覧情報 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻10「荀彧伝」:曹操が兗州牧・鎮東将軍でいる間、常に荀彧を司馬として従えた。2-p.308*, 2-p.234** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻7「呂布伝附張邈伝」裴注引『典略』:金尚は、霊帝の初め、兗州刺史に命じられて赴任したが、すでに曹操が兗州を支配していたので、南の袁術を頼っていった。1-p.223*, 2-p.019** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻17「于禁伝」:黄巾賊が起こった時、于禁は鮑信の募兵に応じた。曹操が兗州を領するようになると、于禁はその仲間とともに曹操のもとに至り、都伯(隊長)となって将軍王朗の所属となった。王朗はこれを高く評価し、于禁を大将軍に任ぜられるべき才能だと推薦した。曹操は引見し、軍司馬とし、兵を率いて徐州へ赴かせ、その成果を見て、陥陳都尉とした。2-p.522*, 3-p.221** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻12「鮑勛伝」裴注引『魏書』:曹操は、賊が勝利を恃んで驕り高ぶっていたので、奇兵を設けて寿張で彼らを攻撃しようと思い、まず鮑信とともに戦地へ視察に出た。ところが後続の歩兵軍が到着しないうちに、突然賊と遭遇し、接戦となった。鮑信は特に必死で戦い、以て曹操を救ったので、曹操はやっとのことで脱出できた。鮑信はかくして没した。時に四十一歳。彼は乱に遭遇して挙兵したとはいえ、もともと儒学を修める家柄で、身を治め非常に質素な暮らしぶりで、将士に対して手厚く、家に余財はなかった。だから士卒は彼を慕った。2-p.384*, 2-p.428** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操が歩兵騎兵千余人を引き連れて戦地を巡視していた時、不意に賊の陣営に行き当たった。戦いに利あらず、死者数百人を出して引き返す。黄巾族は場数を踏んで強力、一方曹操の軍は古参の兵は少なく、新しい兵は訓練されておらず、軍を挙げてみな敵を懼れた。曹操は甲かぶとを身にまとい、自ら将兵たちを見回り、賞罰を明確に定めたので、衆は再び志気が上がり、隙を突いて攻撃し、次第に敵軍は退いた。賊は曹操に、「あなたはその昔済南にいたときには神壇を破壊し、その道は中黄太乙に同じで、道というものをご存知のようにお見受けしたのに、今は惑乱されている。漢王朝の命運は既に尽きており、黄家が立つべきなのだ。天の大運として、あなたの才能や力で漢王室を存続させるのは不可能だ」と回し文をした。曹操は激怒し、何度も投降の道を示してやったが、ついに奇襲作戦をとり、昼夜に戦い、そのたびに捕虜をとり、かくして賊は敗走したのだった。1-p.10*, 1-p.027** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻1「武帝紀」裴注引『世語』:劉岱が死んで、陳宮は曹操に兗州牧となるよう進言し、別駕・治中らに説得して「今天下は分裂し、この州には主がいない。曹東郡は命世の才であるから、もし迎えて州を治めさせたら、きっと人民を静めることができるに違いない」と。鮑信らもこれに同意した。1-p.10*, 1-p.026** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻1「武帝紀」:青州の黄巾衆百万、兗州に侵入し、任城の相、鄭遂を殺して、東平に入る。劉岱はこれを撃とうとし、鮑信の諌めに従わずに戦って、果たして殺された。鮑信は、州吏の万潜らとともに東郡に赴き、曹操を兗州牧として迎える。かくして兵を進めて寿張の東に黄巾を撃つ。鮑信は力戦して亡くなり、やっとのことで敵を打ち破った。鮑信の亡骸を懸賞金をかけて求めたが得られず、衆は木を刻んで彼の人形を作り、それを祭って哭した。黄巾賊を済北まで追撃し、冬、投降者三十余万、男女百余万人を受け入れ、その精鋭を集めて青州兵と号した。1-p.9*, 1-p.025** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻1「武帝紀」:夏四月、司徒の王允、呂布と共に董卓を殺す。董卓の将、李傕、郭汜らは、王允を殺し、呂布を攻撃、呂布は敗れて東へ向かい武関を出る。李傕ら、朝政を専らにする。1-p.9*, 1-p.025** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:諸将はみな引き返して自らの本拠地である東武陽を救うべきだと考えたが、曹操は、「孫臏は趙を救うのに魏を攻めたし、耿弇は西安に逃避しようとして臨菑を攻めた。もし私が西に向ったことを賊が聞けば引き返してくるだろうから、武陽は自ずから包囲を解除される。もし引き返してこなかったら、私は彼らの本陣を破ることができるし、彼らは武陽を陥落させることはできない」といい、かくして進んだ。1-p.9*, 1-p.024** 2020年12月08日 初平03年(192)38歳:巻1「武帝紀」:春、曹操は頓丘に駐屯し、于毒らは東武陽を攻めた。曹操は兵を率いて西から山に入り、毒らの本陣を攻め、これを聞いた毒は武陽を捨てて還った。曹操は、眭固を撃とうとする一方、また匈奴の於夫羅(巻1「武帝紀」裴注1-p.9/1-p.025に引く『魏書』に説明あり)を内黄に撃ち、いずれも大いに破った。1-p.9*, 1-p.024**