2020年 一覧情報 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻1「武帝紀」:袁紹は、韓馥と謀って幽州牧劉虞を帝に擁立しようとしたが、曹操はこれを拒んだ。翌年春、袁紹・韓馥は劉虞を帝に立てたが、虞はこれを受けなかった。1-p.8*, 1-p.023** 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻1「武帝紀」:劉岱は橋瑁と仲が悪く、劉岱は橋瑁を殺し、その後釜として王肱を東郡太守とした。1-p.8*, 1-p.023** 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻51「呉書・宗室伝(孫静)」裴注引『会稽典録』:周昕は若い頃、京師に遊び、太傅陳蕃に師事して群書を博覧、とくに風角に明るく、災異の予知に巧みであった。大尉府に辟され、後に丹陽太守に遷った。曹操が義兵を起こしたとき、周昕は一万餘りの兵を遣って曹操の征伐を助けた。5-p.1206*, 6-p.309** 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻46「孫堅伝」裴注引『会稽典録』:曹操は義兵を起こしたとき、周〓[日+禺](周昕の弟)を迎えに人を遣った。周〓[日+禺]はすぐに兵衆二千人を集めて曹操に従い、軍師となった。5-p.1100*, 6-p.029** 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻1「武帝紀」:曹操軍は、銍・建平に至ってまた兵一千餘人を得て、河内に進んで駐屯した。1-p.8*, 1-p.023** 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻9「曹洪伝」:曹洪は、家兵一千餘人を率いて、かねてより懇意にしていた揚州刺史の陳温を訪れて募兵し、廬江の精鋭二千人を得、丹楊でまた数千人を得て、曹操と龍亢で合流した。1-p.277*, 2-p.159** 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:兵は反乱を企て、夜に曹操の帳を焼いた。曹操は剣を手にして数十人を殺し、残りの者たちは恐れをなして道を空け、そのために陣営を脱出できた。反乱に加わらなかった者は五百餘人だった。1-p.8*, 1-p.023** 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻1「武帝紀」:曹操は兵が少なかったので、夏侯惇らと共に揚州へ募兵に赴いた。揚州刺史の陳温、丹楊太守の周昕から兵四千餘人を与えられた。龍亢まで還ってきて、士卒の多くが離反した。1-p.8*, 1-p.022** 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻1「武帝紀」:曹操が酸棗に到着すると、諸軍の兵十余万は毎日宴会を開き、進撃する意志はない。曹操はこれを責め、具体的な計略を示して「……今、兵は正義をよって動いているのに、疑いを持って進まないでいたら、天下から寄せられた期待に背くことになる、自分はひそかに諸君のためにこのことを羞じる」と言ったが、張邈らはその計略を用いることができなかった。1-p.7*, 1-p.022** 2020年12月08日 初平01年(190)36歳:巻9「曹洪伝」:曹操が董卓の将、徐栄に敗れた時、曹洪は、馬を失い賊に追われて切迫した曹操に馬を譲ろうとする。辞退する曹操に対して、曹洪は「天下に私がいなくてもかまわないが、あなたはいないわけにはいかない」と言う。かくして徒歩で汴水まで至れば、水が深くて渡れない。曹洪は岸辺を巡って船を調達し、曹操と共に渡り、譙に逃げ帰った。1-p.277*, 2-p.159**