2020年 一覧情報 2020年12月08日 中平04年(187)33歳:巻1「武帝紀」:東郡太守に任命されたが就任せず、疾と称して郷里に帰る。1-p.4*, 1-p.014** 2020年12月08日 光和07年(184)30歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:長吏は貪婪に賄賂を取っていたが、貴戚を後ろ楯としていたので、歴代の相は検挙できなかった。曹操が来て、皆検挙したと聞き、大物も小物も恐れおののき、他の郡へ逃亡した。政教は大いに行われ、郡内は一掃された。その初め、城陽景王劉章は漢に功績があったので、その国は彼の祠を立てた。青州の諸郡は皆それを摸倣したが、済南は最も盛んで、六百餘もの祠があった。商売人の中には郡の太守の輿服をまね、倡楽を設けたりする者もあり、奢侈が日々にひどくなり、人民はそのために困窮したが、歴代の長吏には敢えてこれを禁じることのできる者はいなかった。曹操が赴任すると、それらの祠を全て壊し、官吏・人民にそうした祭祀を禁じた。政を執り行うようになってからは、邪悪な宗教行事を除去し、世の中の淫祀はこれにより絶滅した。1-p.4*, 1-p.013** 2020年12月08日 光和07年(184)30歳:巻1「武帝紀」:光和(178-184)の末、黄巾の乱が起こる。騎都尉となって、潁川の賊を討つ。済南相に遷る。国に十餘県あり、長吏の多くは貴戚に阿諛追従し、汚職が横行していた。そこでその八割方を罷免にした。淫祀を禁止し、悪人は逃亡し、郡内は粛然と襟を正した。1-p.3*, 1-p.013** 2020年12月08日 光和03年(180)26歳:巻1「武帝紀」:議郎となる。1-p.2*, 1-p.010** 2020年12月08日 光和02年(179)25歳:巻5「后妃伝(卞皇后)」:曹操、譙にて、もと倡家の卞氏を納れて妾とする。1-p.156*, 1-p.372** 2020年12月08日 熹平07年(178)24歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操の従妹の夫、宋奇が誅せられたのに連座して免官。後に、古学に明るいことによりまた議郎となった。これより前、陳蕃・竇武らが宦官殺害を謀って却って殺された事件(168年)について、曹操は上書して、陳蕃・竇武らは正しかったのに害されたこと、奸邪が朝廷に満ち、善人が閉塞状況にあることを述べた。その言葉は非常に切実であったが、霊帝は用いることができなかった。その後、民の批判を受けている州県の官僚を罷免せよとの詔勅が出されたが、三公は不正邪悪で、賄賂が横行し、勢力の有無により処遇に不当な落差が出た。曹操はこれを憎んだ。この年、天変地異をきっかけに広く政治の得失が問われたので、曹操は再び上書して厳しく諌めた。天子は三府に示して譴責し、謡言で懲罰を受けた者たちは皆議郎に拝せられた。この後、政治教化は日々に乱れてゆき、世の中が破壊された。曹操は匡正できないことを知って、とうとう再び発言することはなくなった。1-p.3*, 1-p.012** 2020年12月08日 熹平06年(177)23歳:巻1「武帝紀」:頓丘令に遷る。1-p.2*, 1-p.010** 2020年12月08日 熹平03年(174)20歳:巻1「武帝紀」裴松之注:王隠『晋書』に引く博士馬平の論評を引いて、「京兆府君(司馬建公)はその昔、魏武帝を北部尉に推挙し、そのおかげで賊が境界を侵犯しなくなった」と。1-p.49*, 1-p.107** 2020年12月08日 熹平03年(174)20歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:曹操は尚書右丞司馬建公(名は防、司馬宣王(懿)の父)の推挙によって尉となった。1-p.49*, 1-p.107** 2020年12月08日 熹平03年(174)20歳:巻1「武帝紀」裴注引『四体書勢』序:梁鵠は曹操を北部尉とした。1-p.48*, 1-p.107**