2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻38「蜀書・許靖伝」裴注引『魏略』:王朗が許靖に送った書簡の中で、武皇帝(曹操)が劉備と親交がありながら対立したのは、その本意ではない、と。4-p.968*, 5-p.225** 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻21「劉廙伝」:曹操は長安にいて、自ら蜀を征伐しに行こうとした。劉廙は上疏してこれを諌めたが、曹操は、自分はそのように坐して西伯の徳を行うような人間ではないと言って従わなかった。3-p.615*, 3-p.426** 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻1「武帝紀」:冬十月、宛の守将の侯音らが反乱を起こし、南陽太守を捕らえ、吏民を脅かして宛を占領した。初め、曹仁は関羽を伐ちに行って樊城に駐屯していたが、この月、曹仁を遣って宛を包囲させた。1-p.51*, 1-p.113** 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻1「武帝紀」:秋七月、曹操は軍隊を訓練して、劉備を伐つべく西に赴き、九月、長安に至った。1-p.51*, 1-p.113** 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻1「武帝紀」:六月、令を発し、「古の埋葬は、必ず痩せた土地に行った。それかの西門豹が西原の上に祠を置いて寿陵(生前に作る陵墓)と為した時、もともとの高さを利用して基礎とし、土を盛ることもせず、樹木を植えることもしなかったのを手本とせよ。『周礼』に、冢人は公墓の地を掌り、凡そ諸侯の墓は君王の左右より前に、卿大夫の墓はそれよりも後に置くとある。漢代の制度でもこれを陪陵という。それ公卿大臣、将軍の功績ある者は、寿陵に従わせるがよい。そのための広さを確保するために、墓域を十分に広くせよ」と。1-p.51*, 1-p.112** 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:王の令を載せて、「去る冬は、天が疫病を降らせ、民は疲弊し、外部で戦乱が起こって、田畑が損なわれた。私はこのことを非常に憂えている。それ吏民の男女に令を発する。女の七十歳以上で夫や子のない者、もしくは十二歳以下で父母兄弟のいない者、及び目が見えなかったり、手足が不自由だったりする者の、妻子父兄も家業もない者には、終身、食料を給付する。幼い者は十二歳になったら支給を止める。貧窮で自活できない者には、その家族の人数によって貸し付ける。年寄りで養いを必要とする者のうち、九十歳以上は、一家につき一人、賦役に従事しなくてもよい」と。1-p.51*, 1-p.112** 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻32「蜀書・先主伝」:先主(劉備)が武都に入らせた呉蘭・雷銅らは、皆曹操に滅ぼされた。先主は陽平関に野営して、夏侯淵・張郃らと対峙した。4-p.884*, 5-p.053** 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻25「楊阜伝」:劉備が漢中を取って下辯に迫ったとき、曹操は武都に移動しようとしたが、吏民が土地に愛着を持って移ろうとしないのではないかと心配だった。楊阜はもとより威信を得ていたので、人々を無理なく従わせて京兆・扶風・天水のあたりに移住させることができた。3-p.704*, 4-p.121** 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻32「蜀書・先主伝」:建安二十三年、先主(劉備)は諸将を率いて漢中に入り、呉蘭・雷銅らを武都に入らせた。4-p.884*, 5-p.052** 2020年12月08日 建安23年(21864歳:巻19「任城威王彰伝」裴注引『魏略』:曹操が漢中で劉備を攻撃するのに、曹彰を呼んで撃たせた。彰は昼夜をおかずに道をゆき、長安に到着したが、曹操はすでに帰還していたので、関中を通って帰った。2-p.556*, 3-p.289**