2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻15「梁習伝」裴注引『魏略』:建安二十二年、曹操は漢中を抜き、諸軍を長安へ帰還させ、太原の烏丸王魯昔を池南に駐屯させた。魯昔は晋陽に住む愛妻恋しさのあまり謀反を起こした。そこで梁習は鮮卑人を遣って魯昔を伐たせた。曹操は梁習を関内侯に封じた。2-p.470*, 3-p.111** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻13「王朗伝附王粛伝」裴注引『魏略』:(董遇、建安の初めより朝夕に皇帝に侍講し、天子の信頼を得ていた。)二十二年に至って、許中の百官が制を矯する(曹操を殺そうとする計画…訳本)という事件があったが、遇は陰謀に関わっていなかったにも関わらず鄴に呼び出され、散官に遷された。かつて、曹操が西征するのに従い、孟津を経由した時、弘農王の墓を通り過ぎた。曹操は墓参りをしようか迷ったが、董遇は地位を越えて、春秋の義に基づいて参るべきではないということを進言したので、曹操は取りやめた。2-p.420*, 2-p.513** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻25「楊阜伝」:曹操が都護の曹洪を派遣して馬超らを平定させたとき、曹洪は大いに酒宴を張り、女倡に薄絹の衣装を着せて、足を踏みならし太鼓を打たせた。一座は皆笑ったが、楊阜は声を厳しくして曹洪を叱責し、「男女の別は国の大節である。どうして人々の中で女性の裸体をあらわにさせるのか」と言って、退出した。曹洪はすぐに女楽を止めさせた。3-p.704*, 4-p.121** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻25「辛毗伝」:曹操は都護の曹洪を派遣して下辯を平定させたが、辛毗と曹休を参与させ、令に「昔、漢の高祖は財を貪り色を好んだが、張良・陳平がその過ちを矯正した。今、辛毗・曹休の心配は軽くない」と言った。3-p.696*, 4-p.104** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻9「曹休伝」:劉備が呉蘭を下弁に駐屯させた時、曹操は曹洪を遣って征伐させたが、曹休を騎都尉とし、曹洪の軍事に参与させた。曹操は曹休に「お前は参軍だが、実質上は帥だ」と告げ、これを聞いた曹洪は、休に事を任せた。1-p.279*, 2-p.163** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻1「武帝紀」:劉備は、張飛・馬超・呉蘭を下辯に駐屯させた。曹操は、曹洪を派遣してこれを阻止させた。1-p.50*, 1-p.109** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻12「鮑勛伝」:建安二十二年、太子が立つと、鮑勛を中庶子とした。その後、黄門侍郎に移り、出でて魏郡西部都尉となった。曲周の県吏であった太子の郭夫人の弟が官布を盗んだ時、曹操は譙にいて、太子は鄴の留守を守っていたが、何度も手書きで彼のために謝罪した。しかし鮑勛は特別扱いしなかった。鮑勛は東宮にいた時、公正さを守って太子の言いなりにならなかったが、このことが重なって、太子の鮑勛に対する怨みはいよいよ増し、ついに彼を免官とした。しばらくして侍御史に拝せられた。2-p.384*, 2-p.429** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻12「何夔伝」:文帝が太子となって、涼茂が太傅、何夔が少傅となった。この二人に命じて、尚書の東曹とともに太子諸侯の属官を選ばせた。涼茂が亡くなると、何夔が涼茂に代わった。2-p.381*, 2-p.421** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻11「涼茂伝」:涼茂、文帝が太子となって、太子太傅となり、非常に尊敬された。2-p.338*, 2-p.309** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻10「荀攸伝」:文帝が東宮にいた頃、曹操は「荀攸は人の手本だ。お前は礼儀を尽くして彼を敬うべきだ」と言って聞かせた。荀攸が病気になったとき、太子はこれを見舞い、一人ベッドの下で拝礼したが、その格別に尊敬されることはこのようであった。2-p.325*, 2-p.276**