2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻1「武帝紀」:冬十月、天子は王に、十二の飾り玉を付けた冕、金根車に乗ること、六頭立ての馬に駕すること、五つの季節の色に塗った副え車を設けること、五官中郎将の曹丕を魏の太子とすることを命じた。1-p.49*, 1-p.108** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:初め、衛尉の官を置いた。八月、令を発して、「その昔、伊尹・傅説は賤人の出身であったし、管仲は桓公の敵であったが、皆起用されて国に興隆をもたらした。蕭何・曹参は県の小役人で、韓信・陳平は汚辱の名を着せられ、笑われるような恥を持っていたが、最終的には王業を成就させることができて、その名を千年の後にまで残すこととなった。呉起は将軍の地位に執着し、その妻を殺して自らへの信頼を獲得し、金をばら撒いて官職を求め、母が亡くなっても帰らなかったが、しかし彼が魏にいる間は、秦人は敢えて東へ向かうことはできず、彼が楚にいる間は、三晋は敢えて南へ向かって謀略を図ることはできなかった。今天下に、至徳の人が民間に放置されているようなことがないわけではあるまい。、また、果敢で自らを顧みず、敵に臨んでは力を尽くして戦う者、もしくは文章を扱う俗吏で、優れた才能やずば抜けた資質を持つ者、あるいは将軍や太守の任務に堪えられる者、汚辱の名を着せられ、人に笑われるような行いがある、あるいは不仁・不孝ではあるが、国を治め兵を用いる術を持つ者がいないわけではあるまい。それ各々知っている者を推挙せよ。遺漏があってはならぬ」と。1-p.49*, 1-p.109** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻1「武帝紀」:夏四月、天子は王に、天子の旗を設けること、出入に警蹕を称することを命じた。五月、泮宮(諸侯の設ける学校)を作った。六月、軍師の華歆を御史大夫とした。1-p.049*, 1-p.108** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻47「呉書・呉主伝」:春、孫権、都尉の徐詳に命じて曹操を訪ね投降を申し入れさせた。曹操は返礼の使者を送り、婚姻関係を結んだ。5-p.1120*, 6-p.084** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻9「夏侯惇伝」:(曹操は)夏侯惇の功績を称えて、伎楽名倡を与えた。1-p.268*, 2-p.139** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻9「夏侯惇伝」:曹操、孫権征伐から帰還する時、夏侯惇を二十六軍の総司令官として居巣に駐屯させた。1-p.268*, 2-p.139** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻54「呉書・蒋欽伝」:曹操が濡須に出ると、欽は呂蒙と諸軍節度を持す。5-p.1287*, 7-p.120** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻54「呉書・呂蒙伝」:曹操がまた濡須に出てくると、孫権は呂蒙を督に任命して曹操軍を防御させた。曹操軍は呂蒙に敗れて退いた。5-p.1277*, 7-p.097** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻18「臧覇伝」裴注引『魏書』:孫観(泰山の人。臧覇とともに曹操のもとへ)は子弟たちを鄴に住まわせ、自身は偏将軍、青州刺史に拝せらる。濡須口での孫権討伐に従って負傷。曹操はこれをねぎらい、「将軍はこんなにひどい傷を負ってもますます勇気を奮っておられるが、国のために我が身を大切にすべきではないか」と言った。2-p.539*, 3-p.253** 2020年12月08日 建安22年(21763歳:巻18「臧覇伝」:臧覇、濡須口にて孫権討伐に従い、張遼と先鋒を為す。大雨となって引き返そうとする張遼に、「公は聡明な人だ。自分たちを見捨てたりはしない」と言って引き留める。張遼はこのことを曹操に語り、曹操は臧覇を大いに称揚した。後に、孫権が降伏を願い出ると、曹操は帰還したが、臧覇を夏侯惇らとともに留め、居巣に駐屯させた。2-p.538*, 3-p.251**