2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻9「夏侯淵伝」:(曹操は)夏侯淵の涼州征伐の功績を絶賛し、三百戸を増封し、前の八百戸に併せた。1-p.271*, 2-p.147** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻1「武帝紀」:代郡烏丸の行単于普富盧とその侯王、来朝す。天子は魏王(曹操)の娘を公主に命じ、湯沐邑を与えた。七月、匈奴の南単于呼廚泉がその名王を引き連れて来朝したので、客礼をもってもてなし、かくして魏に留めて、右賢王去卑にその国を監督させることとした。1-p.47*, 1-p.102** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻23「和洽伝」:毛玠が曹操を誹謗中傷していると告げる者がいて、曹操は近臣たちを集めて非常に怒った。和洽は毛玠の日頃の様子を述べ、事実関係を明らかにするように曹操に進言したが、曹操はこれを納れなかった。3-p.656*, 4-p.011** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻22「桓階伝」:桓階は、毛玠や徐奕ら、剛直で仲間の少ない者たちが丁儀とうまくいかず、その短所をあげつらわれているのを取り成して救った。3-p.632*, 3-p.464** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻12「毛玠伝」:崔琰が亡くなって、毛玠は内心不愉快だった。後にある者が「顔に刺青をされ、その妻子は没収されて官の奴隷となっている者について、毛玠は『天に雨を降らせないのはたぶんこれが原因だろう』と言っていた」と告げ口をした。曹操は大いに怒り、毛玠を捕らえて投獄した。大理の鍾繇が毛玠に詰問した。桓階と和洽が進言して毛玠を救済した。毛玠はかくして免職となり、家で卒した。曹操は棺器銭帛を賜り、子の機を郎中に拝した。2-p.376*, 2-p.410** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻12「崔琰伝」:初め、曹操は人を忌み嫌う性質で、その我慢ならなかった者に、魯国の孔融、南陽の許攸、婁圭らがいる。彼らはみな古馴染みということに頼んで不遜な態度をとり、誅せられた。だが、崔琰はその中でも最も世の人々に惜しまれ、今に至るまで彼の死は冤罪であったと言われている。2-p.370*, 2-p.395** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻12「崔琰伝」:(崔琰が高く評価した人物として、司馬懿、崔林らがいるほか)孫礼・盧毓が初めて曹操軍府に入った時、崔琰は二人のことをとても高く評価したが、後にみな三公までになった。2-p.370*, 2-p.394** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻12「崔琰伝」裴注引『魏略』:崔琰の書簡について曹操に上奏したのは、以前から崔琰と仲の悪かった男。曹操は、崔琰が腹の中では自分を誹謗中傷しているのだと思った。刑に伏した崔琰の様子についてまた申し立てたのも、先に上奏した男。曹操もその男に同調し、崔琰を殺そうとした。そこで、公平な事務官を遣って崔琰と行動を共にさせた。崔琰はそのことを悟らず、後に事務官はことさらに崔琰の落ち着いた様子を報告した。曹操は「崔琰はどうしても私に刀鋸を使わせるつもりなのだな」と言った。事務官がそのことを崔琰に伝えると、崔琰は事務官に礼を言い、「私は実にうかつだった。曹操の気持ちがそこまできているとは気づかなかった」と言って、かくして自殺した。2-p.369*, 2-p.393** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻12「崔琰伝」:(崔琰は容姿に優れ、威厳があって、朝廷の官僚たちは彼を仰ぎ見、曹操もまた彼を敬した。)曹操が魏王となって、かつて崔琰が推薦した楊訓は曹操の功績を大いに称揚したが、中にはその阿諛追従ぶりを笑い、崔琰の推薦の失敗と見なす者もいた。崔琰は訓から取り寄せた草稿を読み、訓に「内容がよいだけだ。いずれ時代の変化が訪れることだろう」と書き送った。崔琰の本意は、あれこれ言う者は咎めるのを好むだけで、事の情理を理解していないということだったが、ある者が崔琰のこの書簡を世の中を誹謗中傷するものだと上奏した。曹操は怒って崔琰を罰として懲役囚とし、人を遣って様子を観察させたが、くじけた様子がなかったので、「崔琰は刑罰を受けていながら、家には賓客を通し、門は市場の人のような賑わいだ。賓客に対して虯のような鬚で直視し、まるで怒って目をむいているかのようだ」との令を発し、彼に死を賜った。2-p.369*, 2-p.392** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:(曹操はかつて)尚書右丞司馬建公の推挙によって尉となった。曹操が王となって、建公を鄴に呼び寄せ、ともに歓飲して建公に「私は今日また尉とすることができるか」と言ったところ、建公は「昔、大王様を推挙した時は、ちょうど尉とするのにふさわしかっただけだ」と答え、王は大笑いした。建公、名は防、司馬宣王(懿)の父。1-p.49*, 1-p.107**