2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻1「武帝紀」裴注引『献帝伝』:(曹操を魏王に進める詔を載せる。)魏王は上書して三度辞退したが、返答の詔が三度下されて魏王の辞退は許可されなかった。(また、手ずからしたためられた詔勅を載せる。)1-p.48*, 1-p.104** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻1「武帝紀」:五月、天子は曹操の爵位を魏王に進めた。1-p.47*, 1-p.102** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:所管の役人が奏上するに、「四季の間で、農閑期に軍事講習を行っていることについて。漢は秦の制度を受け継いで、三つの季節には軍事講習を行わず、ただ十月のみに、車馬を皆集めて演習を行い、皇帝は長水の南門に行幸して、五つの軍営の兵士を集めて八つの隊列を組ませて行進させ、これを乗之と名づけていた。今、戦争はまだ終わっておらず、士民たちは日ごろから軍事に慣れているので、これより以降は、四時に軍事講習を行わなくてもよいのではないか。ただ立秋の頃に吉日を選び、車騎を大いに終結させて治兵と号すれば、上は礼の名に合致し、下は漢の制度を継承することができるだろう」と。奏上は許可された。1-p.47*, 1-p.104** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻1「武帝紀」:三月壬寅、曹操は籍田を耕した。1-p.47*, 1-p.102** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻9「夏侯淵伝」裴注引『世語』:夏侯淵の第三子、称について、従孫の夏侯湛の序にいう。……夏侯称は武勇に優れ、その名が曹操の耳に入った。曹操はその手を取って喜び、「我は汝を得たり矣」と。文帝曹丕と布衣の交わりをなした。1-p.273*, 2-p.151** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻9「夏侯淵伝」:夏侯淵の妻は、曹操の妻の妹。長子の衡は、曹操の弟海陽哀侯の娘を娶って、恩寵は特に手厚かった。1-p.272*, 2-p.148** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻9「夏侯淵伝」:その初め、曹操は次のように夏侯淵を戒めていた。「将軍たるもの、臆病になるときも必要だ。ただ勇猛さに恃んでばかりではいけない。将軍は勇気をもとにして、実行には知略を用いる。ただ勇気に任せてばかりでは、一匹夫が相手になるだけだ。」1-p.272*, 2-p.148** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻9「夏侯淵伝」:曹操が鄴に帰還する時、夏侯淵を漢中に留め、征西将軍に拝した。1-p.272*, 2-p.148** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:二月辛未(1日)、所管の役人が大牢(牛・羊・豚の三種をそろえた供え物)をもって廟に帰還を告げ、勲功を記録した。令に、「論者は、祠廟では殿に上るとき履を脱ぐべきだと言う。私は錫命を受け、剣を帯び履を脱がずに殿に上ることとなった。今、廟で祭祀を行うのに履を脱ぐとなると、これは先公を尊んで王命をなおざりにし、父祖を敬って君主をないがしろにするということだ。だから私は敢えて履を脱いで上殿することはできない。また、祭祀に臨んで手を清めるのに、手を水につける真似をして実際に洗わないが、そもそも手を洗うのは清潔さを尊ぶからなのに、真似事だけして洗わないなどという礼は聞いたことがない。それに、「神を祭るには神の在るが如くせよ」(『論語』八佾)というではないか。だから私は自ら水を手に受けて洗い清めるのである。また、神を降ろす儀礼が終わると、階段を下りて幕のところに立ち、音楽の演奏が終了するのを待つが、それでは烈祖を楽しませず、祭りが早く終わらないかと待ちかまえているかのようだ。だから私は、座ったまま音楽が終わり神を見送ってしまうまで待って、それから起き上がることにする。供え物の肉を受け取って袖に納め、侍中に渡すのは、これは敬恭の行いを全うすることにならない。古代においては自ら祭事を執り行っていた、だから私は自ら供物を袖に納め、最後まで抱いて帰ることにする。仲尼は『衆と違ふと雖も、我は下に従はん』(『論語』子罕篇)と言ったが、誠なるかな、この言葉は」と。1-p.47*, 1-p.103** 2020年12月08日 建安21年(21662歳:巻1「武帝紀」:春二月、曹操は鄴に帰還した。1-p.47*, 1-p.102**