2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻11「王脩伝」裴注引『魏略』:曹操が漢中を攻めようと武都にいた時、陽逵・田楽らが韓約の首を送ってきたが、その書状の連名の中に郭憲の名がなかった。曹操はもとから郭憲の名を聞いていたので不審に思い、その理由を聞いてみたところ、次のとおりだった。すなわち、韓約は衆を失って羌から帰還し、郭憲のもとに身を寄せてきた。憲の周りの人々は約の首を取って手柄を挙げようとしたが、郭憲は「人が困窮して私に身を寄せてきたのに、どうしてこれを危めたりできよう」と言って叱りつけた。その後、約は病死したが、田楽や陽逵らはその首を取って送ろうとし、郭憲の名も連ねようとしたが、憲はこれを拒否したのだ、と。曹操はその節義に感嘆し、陽逵らとともに関内侯の爵位を賜るよう上表した。2-p.350*, 2-p.336** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻9「夏侯淵伝」:曹操が張魯を討つために西征したとき、夏侯淵、涼州の諸将・侯・王以下を引き連れて、曹操と休亭にて合流した。曹操は、羌・胡に引見する時、いつも夏侯淵の名を脅しに使った。張魯が降伏し、漢中が平らぐと、夏侯淵を行都護将軍とし、張郃・徐晃らが巴郡を平定するのを監督させた。1-p.272*, 2-p.148** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻8「張魯伝」裴注引『魏略』:劉雄鳴、雲霧の中でも道を迷わず。郭・李の乱の時、多くの人が彼のもとに集まった。馬超の反乱に従わず、超に破られた。後、曹操のもとを訪れた時、曹操は彼の手を取り、「私は関中に入ろうとする時、夢に一人の神人を得たが、それが君であったか」と言って厚く礼遇し、表して将軍に拝し、令を発してその部党を迎えに遣らせた。ところが部党は降伏を望まず、かえって反乱を起こさせた。諸々の亡命者たちは皆彼に就き、その数数千人、武漢道口に拠った。曹操は夏侯淵を遣って討伐させ、劉雄鳴は漢中に走った。漢中が破れると、再び投降。曹操はその鬚を捉えて「老賊め、本当にお前を得たぞ」と言い、その官を復し、渤海に遷した。時にまた、かつて馬超と合して反乱を起こした程銀・侯選ら、漢中に入り、漢中が破れると曹操のもとへ出頭。曹操、みなその官爵を復した。1-p.266*, 2-p.131** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻36「馬超伝」裴注引『典略』::初め馬超が蜀に入ったとき、その庶妻の董氏とその子の秋を張魯のもとに留め置いた。張魯が敗れると、曹操はそれを手に入れ、董氏を閻圃に与え、秋を張魯に引き渡した。張魯は自ら彼を殺した。4-p.948*, 5-p.184** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻9「曹真伝附曹爽伝」裴注引『魏略』:李勝の父、李休、智略あり、張魯に仕え、皇帝の号を称するように勧めるが、張魯は聞き入れなかった。張魯が敗れると、曹操は李休を、張魯に帰順を勧めたとして関内侯の爵を賜い、散官騎従に任命して、鄴に来させた。1-p.290*, 2-p.189** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻8「張魯伝」裴松之注:習鑿歯、かつて王と称せんとする張魯を諌めて止めさせた閻圃を列侯に封じた曹操の論功行賞のあり方を称賛す。1-p.265*, 2-p.130** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻8「張魯伝」裴注引『魏名臣奏』:董昭の上表に、「武皇帝(曹操)は、涼州の従事や武都の投降者たちが、張魯を攻撃するのは容易だ、陽平城は守りにくい、と言っていたことを信じたが、実際に行ってみると、聞いていたのとは違っていたので、他人の判断は、自分の思いと一致することは少ないものだと歎じた。陽平山の軍営を攻めたとき、多くの負傷者が出た。曹操は弱気になってすぐに退却しようとしたが、偶然、敵陣に迷い込んだところ相手が退散した。かくして軍を進めて勝利した」と。また、楊曁の上表に、「武皇帝がはじめ張魯を伐ったときには、十万の衆を率いて自ら出陣し、計略を授け、住民の麦を軍糧とし、張衛の守りなど取るに足りないとしていたが、苦戦し、対峙すること三日、軍を引き返そうとして、「軍を作ること三十年、一朝、持ちて人に与えるは、如何」と言っていたが、撤退の計画が定まってから、張魯が自壊、それで平定できたのだ」と。1-p.265*, 2-p.128** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻8「張魯伝」裴注引『世語』:張魯は降伏を申し入れたが、弟の張衛が陽平城を築いて抵抗したため、官軍は前進できず、張魯は巴中へ逃亡。軍糧尽き、曹操は軍を引き上げようとしたが、郭諶はこれを引き止める。曹操はためらっていたが、夜に野鹿数千頭が張衛の陣営に乱入、また高祚らが偶然に張衛の衆と出くわし、祚は陣太鼓を打ち鳴らして軍勢を呼び集めたので、張衛は急襲されたと思い込み、降伏した。1-p.265*, 2-p.130** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻8「張魯伝」:張魯は漢中を挙げて曹操に降ろうとしたが、弟の張衛が抵抗した。曹操、蜀に入る。張魯、陽平関の陥落を聞いてすぐさま曹操に投降しようとしたが、功曹の閻圃、これを引き止め、「ある程度抵抗した後に降った方が、評価が高くなる」と。かくして張魯は巴中に入った。左右の者たちは財宝倉庫を焼き尽くそうとしたが、張魯は、「自分はもともと国家に帰順するつもりで、逃亡には悪意がない、財宝倉庫は国家のものだ」として、悉く蔵に封をして去った。曹操はこれを褒め、また、張魯がもともと善意であることを以て、人を遣わしてこれを慰撫・説得した。張魯が家を挙げて出頭すると、曹操は逆に彼を鎮南将軍に拝し、賓客の礼でもてなし、閬中侯に封じた。張魯の五人の子どもたち、閻圃をも列侯に封じた。子の彭祖のために張魯の娘を娶った。張魯が薨ずると、原侯と諡した。1-p.264*, 2-p.127** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻2「文帝紀」裴注引『献帝伝』:張魯は、国人の中に西に通じようとする者もあるのに怒って、「寧ろ魏公の奴と為るも、劉備の上客と為らず」と発言。1-p.62*, 1-p.146**