2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」:十一月、張魯が巴中より、その残余の衆を率いて投降した。張魯及びその五人の子をみな列侯に封じた。劉備は劉璋を襲撃して益州を取って巴中を占拠していたが、張郃を派遣してこれを攻撃した。1-p.46*, 1-p.102** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」:十月、始めて名号侯(名目だけの侯)から五大夫に至るまでの爵位を設け、旧列侯・関内侯などと合わせて六等とし(裴注引『魏書』に詳細な説明あり)、以て論功行賞を行った。1-p.46*, 1-p.101** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」裴注引孔衍『漢魏春秋』:天子は、曹操が外任を担っていて、事に望んでの賞は、速やかに行うのがいい場合もあるだろうという理由で、曹操に諸侯・太守・国相を任命することができるよう命じた。その詔に曰く……1-p.46*, 1-p.100** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」:九月、巴の七姓の夷王朴胡・賨邑侯杜濩が夷・賨を挙げて帰順してきたので、巴郡を分けて、朴胡を巴東太守、杜濩を巴西太守に任命し、列侯に封じた。天子より、独断で諸侯・太守・国相を任命する権限を与えられた。1-p.46*, 1-p.100** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻18「李典伝」:李典は学問を好み、儒家的な教養を尊び、諸将と功績を争ったりしなかった。士大夫を敬い、謙虚な姿勢でいたので、軍中ではその人徳を称賛した。2-p.534*, 3-p.243** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻18「李典伝」:李典は張遼・楽進とともに合肥に駐屯。孫権に包囲された時、張遼は教を奉じて出て戦おうとしたが、楽進・張遼・李典は平素から仲がよくなかったので、張遼は二人が従わないのではないかと懸念した。李典は慨然として、「これは国家の大事だ。ただ君の計略がどうかということだけが問題だ。私はどうして個人的な恨みから広義を忘れたりしようか」と言い、衆を率いて張遼と孫権を破った。2-p.534*, 3-p.243** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻17「張遼伝」:曹操は孫権征伐から戻ると、張遼と楽進・李典らを合肥に駐屯させた。曹操が張魯征伐に赴く時、「賊が来たら開けよ」と書いた箱を護軍の薛悌に預けておいた。孫権が攻めて来たので開封すると、「張・李将軍は出陣せよ、楽将軍は護軍を守って戦うことなかれ」と記してあった。諸将は皆ためらっていたが、張遼は勇敢に戦った。曹操はその武勇を高く評価し、征東将軍とした。2-p.518*, 3-p.215** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」:八月、孫権が合肥を包囲したので、張遼・李典を派遣して討たせた。1-p.45*, 1-p.100** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻9「夏侯惇伝」裴注引『魏書』:韓浩、曹操の張魯征伐に従う。論者は、韓浩は知略に優れているからそのまま漢中に駐屯させるのがよいと言ったが、曹操は、自分には韓浩が必要だと言って、ともに帰還させた。1-p.269*, 2-p.143** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻23「杜襲伝」:将軍許攸は部曲を擁して曹操に従わず不遜なことを言っていた。曹操は大いに怒り、まず彼を伐とうとした。群臣は多く諌めたが曹操は聞く耳を持たなかった。杜襲は、許攸は取るに足りない人物だからまともに相手にする必要はないとして諌め、曹操もこれに従った。3-p.667*, 4-p.036**