2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻23「杜襲伝」:杜襲、丞相長史を領して、曹操に従って漢中に張魯を討伐した。曹操が帰還するにあたって、杜襲を関中に留め軍事を任せた。3-p.666*, 4-p.036** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:軍は武都山から千里行ったが、上り下りする険阻な土地で、軍人たちは苦労した。曹操はそこで大饗宴を催し、皆その労苦を忘れなかった。1-p.45*, 1-p.099** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」:秋七月、曹操は陽平(益州北部)に至った。張魯は弟の衛に命じて、将軍楊昂らとともに、陽平関を拠点に山を横切って十余里にわたって築城させ、(曹操軍は)これを攻めるが落とせず、軍を率いて帰還した。賊は大軍が退却するのを見て、守備を解いた。そこで曹操はひそかに人を遣って険阻に乗じて夜襲させ、大いにこれを破り、その将の楊任を斬り、更に進んで張衛を攻めた。衛は夜に遁走し、張魯は潰れて巴中に敗走。曹操軍は南鄭に入り、張魯の府庫の珍宝を尽く手に入れ、巴・漢は、みな降った。漢寧郡を復して漢中とした。漢中の安陽・西城を分割して西城郡とし、太守を置いた。錫・上庸郡を分割して、都尉を置いた。1-p.45*, 1-p.099** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻23「趙儼伝」:曹操は関中を鎮圧するのに苦労したが、趙儼は兵士たちをうまくまとめあげた。3-p.670*, 4-p.042** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻23「趙儼伝」:曹操はもと韓遂・馬超らの配下にあった兵五千人余りを移して、平難将軍殷署らに監督させ、趙儼を関中護軍として統括させた。3-p.668*, 4-p.040** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻15「張既伝」裴注引『典略』:(成公英、韓遂に仕えて曹操の陣営への対処法を進言。)韓遂が没して、成公英は曹操に降る。曹操は大いに喜び、軍師とし、列侯に封じた。弓を射れば三発三中、曹操は手を叩いて、韓遂に対する気持ちを自分に向けてくれるかと問いかけたが、成公英は、「明公は欺けない。韓遂が健在ならば、自分はここにはいない」と言って涙を流した。かくして曹操は成公英を尊敬した。2-p.475*, 3-p.124** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」:三月、曹操は張魯(五斗米道)を征伐しに西に向かい、陳倉まで来て、武都から氐に入ろうとした時、氐人が道を塞いだので、まず張郃・朱霊らを遣ってこれを破った。夏四月、曹操は陳倉から散関を出て、河池に到る。氐王竇茂の衆一万余人は、険阻な土地に依拠して屈服せず、五月、曹操が攻めてこれを陥落させた。西平・金城(涼州)の諸将、麹演・蒋石らは韓遂の首を送ってきた。(裴注引『典略』に、韓遂について記す。)1-p.45*, 1-p.098** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」:雲中・定襄・五原・朔方の四郡を省き、郡に一県を置いてその人民を治めさせ、合併して新興郡とした。1-p.45*, 1-p.098** 2020年12月08日 建安20年(21561歳:巻1「武帝紀」:春正月、天子は曹操の中の娘を皇后に立てた。1-p.45*, 1-p.098** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻23「楊俊伝」:初め、臨菑侯曹植と楊俊は仲がよかった。曹操はまだ跡継ぎを決めていなくて、内密に官吏たちを訪ねた。楊俊は、曹丕と曹植と、それぞれの長所を分け隔てなく評したが、曹植の方がよりよいと称賛したので、曹丕はは常にこれを恨みに思っていた。3-p.664*, 4-p.029**