2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻22「衛臻伝」:初め、曹操が久しく太子を立てず、臨菑侯曹植を贔屓していた頃、丁儀らがその羽翼を為していたが、衛臻に自分たちと手を結ばないかと勧めたが、衛臻は大儀をもってこれを拒否した。3-p.649*, 3-p.500** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻22「桓階伝」:臨菑侯曹植が寵愛されていた時、桓階はしばしば曹丕の方が跡継ぎとして適任である旨を述べた。(同伝裴注引『魏書』に桓階の諫言を載せる。)3-p.632*, 3-p.464** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻12「邢顒伝」:太子が決定していない時、臨菑侯曹植は寵愛され、丁儀らはみなその美点を宣揚した。曹操は邢顒にこのことについて問いかけてみたところ、邢顒は、「庶を宗に代えることは先の世からの戒めである。殿下におかれてはじっくりと考察されますように」と述べた。曹操はその意を知り、後に邢顒を太子少傅とし、太傅に遷った。2-p.383*, 2-p.426** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻12「毛玠伝」:魏国が建国されたばかりの頃、尚書僕射となり、また選挙のことを司った。時に太子は未確定で、臨菑侯曹植が寵愛を受けていた。毛玠は密かに(曹操を)諌めて、「近くは袁紹が嫡庶を分けなかったために国を滅ぼした。太子の廃立は重大なことなので、人の耳に入れるようなことではない」と言った。後に、群僚が会し、毛玠が更衣に立った時、曹操は目で合図して、「彼は古にいう国の司直であり、我が周昌である」と言った。2-p.375*, 2-p.408** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻12「崔琰伝」:魏国が建てられてすぐ、崔琰は尚書に拝せられた。この時、太子はまだ立っておらず、臨菑侯曹植は才能豊かで愛されていた。曹操は太子を誰にするか決断できず、封緘した書簡によってひそかに外部の者たちに相談していた。ただ崔琰だけが封をせずに、長子を立てるのが春秋の義であり、しかも五官中郎将はやさしく聡明であるから跡継ぎにふさわしい、自分は死んでも彼を守る、と答えた。曹植は、崔琰の兄の娘の婿だった。曹操はその公明正大さを尊んで感嘆し、中尉に遷った。2-p.368*, 2-391** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻10「賈詡伝」:曹操の継承者問題をめぐって、賈詡は曹丕に助言を求められ、「身を慎むように」と言った。また曹操はかつて左右の者たちを遠ざけた上で書くに後継者問題について問うたところ、黙って何も言わなかった。曹操がその理由を問い詰めると、「ちょうど考え事をしていたからすぐに応答できなかったのだ」と。曹操が、何を思っていたのかを聞くと、「袁紹父子、劉表父子のことを思っていたのだ」と。曹操は大笑いして、かくして太子は決定した。賈詡は、曹操の旧臣ではないのに、策謀に秀でているので、疑われることを恐れ、門を閉ざして私的な交際はせず、息子や娘たちの結婚も、貴顕の家柄との婚姻関係は結ばなかったので、天下の智計を論評する人々は彼に心を寄せた。(曹丕は、賈詡が曹操に語った言葉を耳に入れた。だから即位するとすぐに彼を高位に挙げたのだ。)2-p.331*, 2-p.290** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻21「王粲伝」裴注引『魏略』:五官中郎将曹丕は広く英儒を集め、また邯鄲淳(荊州から曹操のもとへ)の評判を聞いていたので、彼を文学の官属に置きたいと上申した。ちょうど臨菑侯曹植も邯鄲淳を求めており、曹操は彼を曹植のもとに遣った。3-p.603*, 3-p.396** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻19「陳思王植伝」裴注引『魏略』:曹操は、丁沖が以前に(天子奉戴について)教示してくれたことに感謝していた。その子の丁儀が立派な人物であることを聞き、直接会っていないのに愛娘を彼に嫁がせようとして、五官中郎将(曹丕)に相談したところ、曹丕は、「女性は容貌を重視するが、丁儀は目が具合が悪いので、愛娘があまり喜ばないのではないかと心配だ。伏波将軍(夏侯惇)の子の楙に嫁がせたほうがいいと思う」と言った。曹操はこれに従った。その後まもなく丁儀を召し出して掾とした。ともに議論して、その才の明晰さを褒めて言った。「丁儀は立派な人物だ。もし仮にその両目が見えなくても、娘を与えるべきだ。ましてただの眇じゃないか。わが子が私を誤らせた」と。時に、丁儀もまた公主を娶ることができなかったことを恨んでいて、臨菑侯(曹植)と親しく、しばしばその奇才を賞賛した。曹操はすでに曹植を立てたいと思っていて、丁儀もまたそれに賛同した。(その後、曹丕が即位すると、丁儀は殺された。)2-p.562*, 3-p.304** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻9「夏侯淵伝」:馬超討伐のため挙兵した羌叙らに救援を頼まれて、諸将は曹操の指示を待とうとしたが、夏侯淵は、「公は鄴に在り、往復四千里もある。返事を受け取る頃には羌叙らはきっと敗北している。これでは急を救うことにならない」といって出陣した。1-p.271*, 2-p.146** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻6「劉表伝」裴注引『傅子』:蒯越(208年に荊州より曹操に帰順)は、死に際して曹操に書簡を送って家族のことを託す。曹操は返書してこれを請け負った。1-p.215*, 1-p.518**