2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:(十二月)乙未の日に令を発して、「そもそも徳行に優れた人物が必ずしも進取の行動ができるとは限らず、進取の気性に富む人物が必ずしも品行方正とは限らないのである。かの陳平は品行方正であったと言えるか。蘇秦は信義を守ったと言えるか。だが陳平は漢の帝業を定め、蘇秦は弱い燕を救った。これよりすれば、士人に短所があっても、どうして彼を廃することができようか。担当者はこの意義を明察すれば、忘れられたり昇進の滞った人材はなくなり、職務を怠る官人もいなくなるだろう」と。また、「そもそも刑罰は万民の命に関わる大事であるのに、軍中で獄を司る者の中に適任者でないのに、三軍の生死のことを任されているものがいる。私はこのことを非常に危惧している。それ法律に熟達している者を選んで、刑罰のことを司らしめよ」との令を発す。ここにおいて理曹掾属を置く。1-p.44*, 1-p.097** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:十二月、曹操は孟津に至った。天子は曹操に、天子なみの旗飾りや、宮殿に鍾を吊り下げる台を設置するよう命じた。1-p.44*, 1-p.097** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:曹操は華歆に命じて兵を指揮して宮中に入らせ、皇后を捕らえさせようとした。皇后は戸を閉め壁中に隠れていたが、華歆は戸を破り壁の中を暴き、皇后を引きずり出した。皇帝はその時、御史大夫の郗慮とともに座していたが、皇后は髪を振り乱し、裸足でやって来て、帝の手をとり「命を助けてくださいませんか」と言ったが、皇帝は「私もまた自分の命がいつまで保てるかわからないのだ」と言った。皇帝は郗慮に、「郗公よ、天下にいったいこのようなことがあってよいものだろうか」と語りかけ、かくして(華歆は)皇后を殺した。伏完及びその宗族で死者は数百人にのぼった。1-p.44*, 1-p.097** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:十一月、漢の皇后伏氏が、かつて父の故屯騎校尉伏完に送った書簡に、「帝は董承が殺害されたことで公を怨んでいる」と書き、その言葉ははなはだ醜悪であったが、それが発覚したことによって、皇后の位を廃せられて殺され、兄弟もみな法によって処刑された。1-p.44*, 1-p.097** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻24「高柔伝」:鼓吹の宋金らが合肥で逃亡、曹操は旧法を更に重くしようとしたが、高柔はこれを逆効果として諌め、曹操もその意見を善しとした。3-p.684*, 4-p.075** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:曹操は、合肥より帰還した。1-p.44*, 1-p.097** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻9「夏侯淵伝」:前に宋建が涼州で反乱を起こし、自ら河首平漢王と号した時、曹操は夏侯淵を遣って宋建を討伐させた。夏侯淵は別に張郃らを遣って河関を平らげ、河西の諸羌を尽く降し、隴右を平らげた。(建安21年)曹操は令を下して夏侯淵を絶賛した。1-p.271*, 2-p.147** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:その初め、隴西の宋建は自ら河首平漢王と称し、枹罕に衆を集めて、改元し、百官を置き、三十余年が経過していたが、夏侯淵を派遣し、興国からこれを討った。冬十月、枹罕を滅ぼし、宋建を斬り、涼州が平定された。1-p.44*, 1-p.097** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻19「陳思王植伝」裴注引『文士伝』:丁廙、かつて曹操に何気ないそぶりで曹植を跡継ぎにするよう勧めた。曹操もこれに同意した。2-p.562*, 3-p.305** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻19「陳思王植伝」:曹操は孫権を征伐する時、曹植に鄴の留守番をさせ、「私は昔、頓丘令だった時、二十三歳だった。この時に行ったことは今も後悔していない。今、お前も二十三歳、しっかりやることだ」と戒めた。曹植は才能によって特別に評価された上に、丁儀・丁廙・楊修らが補佐したので、曹操は迷って何度か曹植を太子としようと考えた。2-p.557*, 3-p.292**