2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」裴注引『献帝起居注』:……曹操の二人の娘が貴人として宮中に入った時の様子……1-p.43*, 1-p.095** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻10「荀攸伝」裴注引『傅子』:……曹操は「荀彧は善をとことんまで推し進め、荀攸はとことんまで悪を取り去った」と称賛した。2-p.325*, 2-p.278** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻10「荀攸伝」裴注引『魏書』:曹操の令に「私は荀攸と二十年あまり行動を共にしてきたが、ほんのわずかも非難すべきところがなかった」と。また、「荀攸は真の賢人だ。いわゆる『温・良・恭・倹・譲、以てこれを得たり』(『論語』学而篇)であり、孔子が『晏平仲、善く人と交はり、久しくしてこれを敬ふ』(『論語』公冶長篇)と称しているが、荀攸こそがそのような人だ」と言った。2-p.325*, 2-p.277** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻10「荀攸伝」:荀攸は曹操の孫権征伐に従い、途中で亡くなった。曹操は彼の話をするたびに涙を流した。2-p.325*, 2-p.276** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」裴注引『九州春秋』:参軍の傅幹が「天下を治める大きな道具には二つあって、それは文と武である。武を用いるなら威を優先し、文を用いるなら徳を優先し、威と徳とが十分に助け合って、そうしてこそ王道が完備するのである。かつて天下は大いに乱れ、上下とも秩序を失ったが、明公(曹操)は武をもってこれを打ち払い、十に九を平らげた。今、王の命に承服していないのは呉と蜀であるが、呉は長江という険阻な地の利を持ち、蜀は崇山という地の利を持っていて、簡単に威をもって服従させることはできないが、徳をもって懐柔することは容易である。愚考するに、しばらく武器を置き、軍隊を休ませて、土地を分け与えて封土を定め、論功行賞をするのがよい。もしこのようにすれば、内外の心は固まり、功績のあるものは推薦されて、天下の人々は秩序を知るだろう。そうした後に、だんだんと学校を興し、その善性なるものを導いてその節義を伸ばしてやればよい。公は神の如き武力で世の中を震撼させたが、もし文を修めてこれを補うならば、天下に服従しないものはないだろう。今、十万の衆を挙げて長江の岸辺に駐屯させているが、もし賊が堅固さをたのみに深く隠れてしまったら、兵士も馬もその能力を発揮できないし、臨機応変の奇策も用いる機会がなければ、大いなる威力はくじかれたのに、敵の心は服従させることができないことになる。ただ明公には虞舜の干戚舞の意義を思い、威力を十全に、徳を養って、道をもって勝利を収められるように」と諌めたが、曹操は従わず、軍は結局戦功を上げなかった。1-p.43*, 1-p.095** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:秋七月、曹操は孫権を伐ちに出征した。1-p.43*, 1-p.095** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:三月、天子は魏公を諸侯王の上の地位に置き、改めて金璽・赤紱・遠遊冠を授けた。1-p.43*, 1-p.095** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:安定太守毌丘興が任地に赴くとき、曹操は「羌・胡は中国との通好を望んでいるから、自ら人を派遣してくるに違いない。謹んでこちらから人を派遣しないように。善人は得がたいもので、きっと羌・胡をそそのかして妄りに要求させ、それによって自分の利益を得ようとするだろう。これに従わなければ、すぐに異民族の気持ちを失うだろうし、従えばそれはそれで何も益するところがない」と戒めた。毌丘興が着任すると、校尉の范陵を羌中に派遣し、范陵は果たして羌をそそのかし、自らを属国都尉に任命するよう要求してきた。曹操は「私がこうなることを予知していたのは聖人だからではない。ただ経験が多いからというだけだ」と言った。1-p.42*, 1-p.094** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:南安の趙衢・漢陽の尹奉らが馬超を討ち、その妻子をさらし首にした。馬超は漢中に遁走。韓遂は金城に移り、氐王の千万の部落に入り、羌・胡の万余騎を率いて夏侯淵と戦い、大敗を喫して、西平に走った。夏侯淵は諸将と興国を攻め、これを滅ぼした。安東・永陽郡を省いた。1-p.42*, 1-p.094** 2020年12月08日 建安19年(21460歳:巻1「武帝紀」:正月、曹操は始めて籍田を耕した。1-p.42*, 1-p.094**