2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻37「龐統伝」裴注引『九州春秋』:龐統は劉備に、荒れ果てた荊州よりも、益州に拠って大事を定めるべきだと説いた。自分は曹操とは正反対のやり方をするのだという劉備を更に説得し、かくして劉備は益州に進軍した。4-p.955*, 5-p.197** 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻18「閻温伝」:(混乱状態にあった西域、敦煌太守は死亡、府には丞もいなかった。功曹の張恭は学問のある人物で、郡人に信頼されていた。)張恭は子の就を東に派遣して曹操を訪ねさせ、太守の任命を要請した。2-p.550*, 3-p.276** 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻22「衛臻伝」:東郡の朱越が謀反を起こす時、衛臻を引き入れた。曹操は令を出して、「私はあなたの父と事を起こし、立派な意見もいただいた。初め朱越の言葉を聞いた時、もとより信じることができなかったが、荀彧の書簡を得るに及んで、その忠誠心が具に明らかになった」と。(衛臻は漢の黄門侍郎)たまたま詔命を報じて魏に貴人を招聘しに来ることになったので、衛臻を留めて丞相軍事に参与させた。父の衛臻には旧勲を追録して、関内侯の爵位を賜った。その後、戸曹掾に転じた。3-p.647*, 3-p.496** 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻12「毛玠伝」:大軍が鄴に帰還すると、省庁の合併が議論された。時の人々は毛玠を煙たがっていて、みな彼のいる東曹を廃止させるべきだとした。曹操は事情を知っていて、令を発してそれを退け、西曹を廃止した。2-p.375*, 2-p.408** 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻1「武帝紀」:馬超、漢陽にてまた羌・胡と関係して害をなし、氐王の千万、馬超に応じて叛乱を起こし、興国に駐屯していたのを、夏侯淵を派遣して討伐させた。1-p.42*, 1-p.094** 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻27「王昶伝」裴注引『任嘏別伝』:任嘏は幼い頃から高い人徳で知られていた。曹操の創業のとき、海内の至徳を招いたが、嘏はその推挙に応じ、臨菑侯庶子、相国東曹属、尚書郎となった。3-p.748*, 4-p.205** 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻25「高堂隆伝」:高堂隆、建安18年、曹操に召されて丞相軍議掾となった。後に歴城侯曹徽の文学となり、相に転じた。徽は曹操の服喪中も哀しまず、反って狩猟にふけっていたので、隆は節義をもって諌め導いた。3-p.708*, 4-p.129** 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻22「陳羣伝」:曹操は肉刑を復活させようとして、陳羣にその父陳寔の考えを述べさせた。陳羣は肉刑の取るべきを述べ、鍾繇も陳羣と同意見だったが、王朗を始めとする群臣たちは時期尚早と考えた。曹操は鍾繇や陳羣の言葉を良しとしたが、軍事がまだ終わらないので、このことは沙汰やみとなった。2-p.634*, 3-p.469** 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻13「鍾繇伝」:かつて曹操が令を下し、死刑となる者のうち、宮刑にできる者について議論させたことがあったが、鍾繇は古の肉刑を復活させて死罪に代えるのがよいと主張した。議論する者たちは、それは民を喜ばすやり方ではないと考え、沙汰止みとなった。(その後、文帝が即位してからも再び主張したが、実現には至らなかった。)2-p.397*, 2-p.460** 2020年12月08日 建安18年(21359歳:巻23「杜襲伝」:王粲は博識だったので、曹操が物見に出入りするたびに車に同乗させてもらえることが多かったが、尊敬されるということでは、和洽・杜襲に及ばなかった。ある時、杜襲は一人で曹操に会見し、夜半まで及んだ。王粲は負けず嫌いな性格で、やきもきしていたが、和洽は笑って、「天下のことを話し合うのに尽きることがあろうか。あなたは昼に近侍すればよい。こんなにいらいらとして、昼も夜も願うのか」と言った。3-p.666*, 4-p.035**