2020年 一覧情報 2020年12月08日 巻19「陳思王植伝」:審挙の義を述べた上疏文に、自分は動乱の時代に生まれ、軍隊の中で成長し、また武皇帝から数々教えを受けたが、それは孫子・呉子の兵法を採用しているわけではないのに、暗にこれと符合する結果となっていた、と。2-p.573*, 3-p.329** 2020年12月08日 巻19「陳思王植伝」:自らを試さんことを求むる上疏文に、その昔、自分は東西南北、故武皇帝(父曹操)のお供をしたが、その軍事的手腕は神業とも言えるものであった、と。2-p.567*, 3-p.316** 2020年12月08日 巻12「司馬芝伝」:(明帝期)大司農としての奏上に、「……武皇帝(曹操)は特に屯田を開き、農業や養蚕に専ら力を入れた。建安中、天下の倉は充実し、庶民たちの生活も満ち足りた。(それが黄初年間以来崩れた)」と。2-p.388*, 2-p.437** 2020年12月08日 巻14「董昭伝」:(文帝の時、夏侯尚らが江陵を攻めて勝てなかった。)董昭は上疏して言った。「武皇帝(曹操)は知略も勇気も人一倍であったが、兵を用いるのに敵を畏れて、かくも軽々しく侮るようなことはしなかった。……」と。2-p.441*, 3-p.046** 2020年12月08日 巻4「三少帝紀(陳留王曹奐)」:景元三年(262)、詔して、故軍祭酒郭嘉を曹操の廟庭に祀った。1-p.149*, 1-p.358** 2020年12月08日 巻4「三少帝紀(斉王曹芳)」:正始四年(243)、曹真・曹休・夏侯尚・桓階・陳羣・鍾繇・張郃・徐晃・張遼・楽進・華歆・王朗・曹洪・夏侯淵・朱霊・文聘・臧覇・李典・龐徳・典韋を曹操の廟庭に祀った。1-p.120*, 1-p.290** 2020年12月08日 巻14「蒋済伝」裴松之注:曹操は『家伝』を書いて、自ら「曹叔振鐸の末裔だ」と述べている。2-p.455*, 3-p.078** 2020年12月08日 巻14「劉曄伝」:明帝期、魏王室の祖先に遡って称号や諡号を検討せよとの命が下ったが、劉曄は周王室や漢王室の例に基づいて、せいぜい高帝までとするのが妥当との見解を示した。尚書の衛臻も同意見。この件については、二人の意見に基づいて行われた。2-p.448*, 3-p.060** 2020年12月08日 巻3「明帝紀」裴松之注:黄初四年(223)、廟を二つ造り、曹騰・曹嵩・曹節を合祭し、他方、曹操の廟は特別に立てて壊すことのないように、との奏上があった。……景初元年(237)に至って始めて七廟の制度が定められた。1-p.97*, 1-p.234** 2020年12月08日 巻2「文帝紀」裴注引『魏書』:黄初四年(223)、廟を二つ造り、曹嵩の廟を立て、曹騰とその父曹節とを合祭し、近親者がいなくなれば順次壊すように、他方、曹操の廟は特別に立てて四時に祀り、これを魏の曹操として万歳、壊すことのないように、という内容の役人の奏上があった。1-p.83*, 1-p.199**