2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安18年(213)59歳:巻55「呉書・董襲伝」:曹操が濡須に出てくると、董襲は孫権に従って赴いた。5-p.1291*, 7-p.131** 2020年12月08日 建安18年(213)59歳:○巻54「呉書・呂蒙伝」:;曹操は朱光を廬江太守として派遣し、皖に駐屯させ、稲田を開かせ、一方、間者を送り込んで鄱陽の賊帥を魏に内応させようとした。呂蒙はこれを危ぶんで孫権に進言した。5-p.1276*, 7-p.093** 2020年12月08日 建安18年(213)59歳:巻54「呉書・呂蒙伝」:孫権が濡須で曹操に対峙したとき、呂蒙はしばしば奇計を進言し、また孫権に水口を挟んで土手を作るように勧め、それでめざましい防御ができた。曹操はこれを降すことができずに退却した。5-p.1275*, 7-p.093** 2020年12月08日 建安18年(213)59歳:巻51「呉書・宗室伝」:孫皎、二千餘人の軍を率いて、濡須で曹操に抗戦し、精鋭との評判を得る。5-p.1206*, 6-p.312** 2020年12月08日 建安18年(213)59歳:巻51「呉書・宗室伝」:孫瑜、孫権が濡須で曹操に抗戦するのに従う。孫瑜は孫権に持重するよう説得したが、孫権は従わず、果たして軍功を上げられなかった。5-p.1206*, 6-p.310** 2020年12月08日 建安18年(213)59歳:巻47「呉書・呉主伝」裴注引『呉歴』:曹操は濡須を出ると、油船を作り、夜州上を渡った。孫権は水軍でもって取り囲み、三千餘人を得、溺れた者も数千人だった。……孫権が自ら偵察にやってきたのを曹操が眺めて感嘆、「子を持つなら孫権のような人物がほしい、劉表の子等は豚や犬と同じだ」と。孫権は曹操に「春水がまもなく生じるので、公はすみやかに去るのがよろしいでしょう」と。また別に「あなたが死ななければ、私は安心できない」とも書き送った。曹操は諸将に「孫権は私を欺かない」と語り、軍隊を撤収して帰った。5-p.1119*, 6-p.080** 2020年12月08日 建安18年(213)59歳:巻47「呉書・呉主伝」:曹操、濡須を攻撃、孫権はこれと対峙すること一ヶ月餘となる。曹操は孫権軍を眺望し、その整然と統制の取れていることに感嘆して退却した。初め、曹操は江浜の郡県が孫権に侵略されることを恐れ、強制的に北に移住させようとしたが、民は動転してほとんどの者が江東に渡った。5-p.1118*, 6-p.079** 2020年12月08日 建安18年(213)59歳:巻1「武帝紀」:正月、濡須口に進軍し、孫権の長江西岸の軍営を攻撃して破り、孫権の都督の公孫陽を捕らえて、軍を引き上げ帰還。詔により十四州を併合し、また九州とした。四月、鄴に至る。1-p.37*, 1-p.081** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻32「「蜀書・先主伝」裴注引『益部耆旧雑記』:(張松は為人短小で、行いに節度がなかったが、才能があった。)劉璋は松を曹操に表敬訪問させたが、曹操はあまり礼遇しなかった。主簿の楊修は非常に彼を高く評価して、松を辟するように言ったが、曹操は受け入れなかった。4-p.882*, 5-p.050** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻31「蜀書・劉璋伝」裴注引『漢晋春秋』:張松が曹操に会見したとき、曹操は自らを誇って松を軽くあしらった。松は帰還して劉璋に自ら曹操と絶交するように勧めた。4-p.869*, 5-p.020**