2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻47「呉書・呉主伝」:孫権、石頭に城壁を築き、前年に役所を移した秣陵を建業と改名、曹操がまもなく侵略してくることを聞くと、濡須塢を作った。5-p.1118*, 6-p.079** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻38「許靖伝」裴注引『山陽公載記』:建安17年、漢は皇子の煕を立てて済陰王とし、懿を山陽王、敦を東海王とした。許靖はこれを聞いて、「『将欲歙之、必固張之、将欲取之、必固与之』(『老子』第三十六章)というのは、それ曹孟徳をいうのか」と言った。4-p.967*, 5-p.222** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻32「蜀書・先主伝」:曹操が孫権を征伐するとき、孫権は先主(劉備)を呼んで救援させようとした。先主は使者を劉璋に派遣して、一万の兵と物資を融通してもらって東征しようとしたが、劉璋はしぶった。4-p.881*, 5-p.048** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻25「楊阜伝」裴注引皇甫謐『列女伝』:姜叙の母は、馬超への復讐を謀る楊阜のために子の叙を励まして馬超を攻撃させたが、馬超に捕らえられ、母子ともに殺された。楊阜にその一部始終を聞いた曹操は非常に感心し、彼女の賢明さを称揚した。3-p.703*, 4-p.118** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻25「楊阜伝」:隴右が平定されてから、曹操は馬超を討伐した功績により十一人を侯に立て、楊阜を関内侯に封じた。楊阜はこれを辞退したが、曹操は子貢と孔子の例などを引きながら、辞退しないようにとの返書を送った。3-p.702*, 4-p.116** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻18「龐淯伝」:龐淯、殺された太守徐揖の遺体を収容し、三年の喪に服した。曹操はそれを聞いて召し寄せ、関内侯の爵位を賜った。2-p.547*, 3-p.269** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻27「胡質伝」:蒋済が別駕となって、使者として曹操に会見したとき、曹操に、胡通達は長者だったが、子孫はあるかと尋ねられ、胡質のことを、器としては父に及ばないが、実務能力においては父に勝るとして推薦した。曹操はすぐに質を召して頓丘令とした。曹操は後に質を辟して丞相属とした。3-p.741*, 4-p.191** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻14「蒋済伝」:大軍が南征から帰還して、曹操は温恢を揚州刺史とし、蒋済を別駕とし、その令に「……今、君が州に帰ると私も安心だ」と。民に、蒋済のことを謀反を企てた首謀者だと密告する者があった。曹操はこれを聞いて、左将軍于禁・沛相封仁らに、「蒋済にどうしてこのようなことがあろう。もしこのようなことがあったのなら、私は人を見る目がないということになる。これはきっと愚民が乱を楽しんで面白半分に引き起こしたことに違いない」と言い、釈放させた。辟して丞相主簿西曹属とした。2-p.450*, 3-p.066** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻15「温恢伝」:温恢、丞相主簿となり、出でて揚州刺史となった。曹操は彼に、「お前を側に置いておきたいが、この州のことのほうがもっと大事だ。『書経』にも「股肱良き哉、庶事康き哉」という。蒋済に治中となってもらわねば」と言った。時に蒋済は丹陽太守であったが、(出身の)州に戻した。また、張遼・楽進らに、「揚州の刺史は軍事に通暁している。動静は彼とよく相談するように」と語った。2-p.478*, 3-p.131** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻14「劉曄伝」裴注引『傅子』:曹操は劉曄及び蒋済・胡質ら五人を徴したが、みな揚州の名士であった。都への帰途、曹操は彼らと議論をしたが、劉曄はずっと黙したままだった。それは、深遠な言葉はその精神に徴すべきで、単独で会見してその機微を語りつくさせるべきであって、座談によるべきではないという意味であった。曹操は彼の思いを知ってから、劉曄以外の四人は令とし、彼だけに腹心の任務を与えた。疑事があるたびに劉曄に封緘した書簡により下問し、それが一夜に数十至ることもあった。2-p.445*, 3-p.052**