2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻10「荀彧伝」裴注引『荀彧別伝』:荀彧を高く評価するわけを聞かれた鍾繇は、「そもそも明君は臣下を師とし、その次のランクとしてはこれを友とする。曹操の聡明さをもってしても、大事のあるたびに、いつもまず荀君に相談している。これは古の師友の義に他ならない」と答えた。2-p.318*, 2-p.259** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻10「荀彧伝」裴注引『荀彧別伝』:荀彧・荀攸の人材推薦に対して、曹操は、「二人の人物評価は、時が経つにつれて益々信用される。私は死ぬまで忘れない」と言っていた。2-p.318*, 2-p.259** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻10「荀彧伝」裴注引『荀彧別伝』:荀彧は、自身のことを尚書令と任じていたので、いつも書状をもって事を述べていたが、臨終の時、それらをすべて焼かせた。だから、彼の奇策密謀を全て聞き知ることはできない。当時、征伐と国家草創の重なっていた時期で、多くの制度が復興しつつあったが、荀彧はかつて曹操に、武力による征伐が済んでから文治教化を考えるようでは遅すぎる。早い時期から漸次教化を深めるように、と進言した。荀彧がさりげなくゆったりと曹操に治世の道を論じたのはこのような類のものがとても多い。曹操はいつも喜んでこれを受け入れた。2-p.317*, 2-p.257** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻10「荀彧伝」裴注引『魏氏春秋』:曹操は荀彧に食べ物を贈り、空けてみると空っぽだったので、そこで荀彧は薬を飲んで亡くなった。咸煕二年(265)、荀彧に大尉の称号を贈った。2-p.317*, 2-p.257** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻10「荀彧伝」裴注引『献帝春秋』:(200年、董承、誅せらる。伏后が伏完に宛てた手紙について、荀彧は久しく沈黙していた。荀彧は後に自ら曹操のもとに出頭し、知らなかったふりをしようとするが、曹操はこれを責める。)……董昭が曹操を魏公に立てるという発議をするに至って、荀彧は気持ちとして同意できず、そのことを曹操に言おうとした。天子の書簡を持って軍を慰労しに行った時、宴会が終わって、荀彧は曹操に留まって時間を作ってほしいと願い出たが、曹操は荀彧が魏公に封じられることについて言おうとしているのだと知り、会釈して彼を立ち去らせたので、荀彧はついに言うことができなかった。荀彧は寿春で亡くなったが、寿春から亡命した者が孫権にこのことを告げ、曹操が荀彧に伏后を殺させようとしたが、荀彧は従わず、自殺したと述べた。孫権はこのことを蜀に暴露すると、劉備はこのことを聞き、「老いぼれが死んでないから、禍乱はまだ終わっていない」と言った。(裴松之は『献帝春秋』の記述に疑義を呈す)2-p.318*, 2-p.260** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻10「荀彧伝」:董昭ら、曹操の爵位を国公に進めるべきだと考え、ひそかに荀彧に諮った。荀彧は「曹操はもともと義兵を興して朝廷を助け国を安んじようとした。忠誠心をもって謙譲の姿勢を守り通してきた。君子は人を愛するのに仁徳をもってする。このようなことはよろしくない」として反対した。曹操はこれにより心中穏やかでなかった。ちょうど孫権討伐に際して、(曹操は)上表して荀彧を譙での軍慰労に派遣してほしいと要請し、そこで荀彧を留め、侍中光禄大夫として節を持し、丞相の軍事に参与させた。曹操の軍が濡須まで至った時、荀彧は急病のため寿春に留まり、憂悶のうちに薨じた。時に五十歳。…翌年、曹操は魏公となった。2-p.317*, 2-p.256** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻14「董昭伝」裴注引『献帝春秋』:董昭は列侯諸将と話し合い、丞相(曹操)の爵位を国公に進め、九錫を整え、勲功を明らかにすべきだとして、荀彧に書簡を送ってこのことを説得した。2-p.440*, 3-p.043** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻14「董昭伝」:董昭、古代の五等の爵位制度を復活させるよう建議。後に、曹操は魏公・魏王の称号を受けることになったが、いずれも董昭が言い出したことである。2-p.439*, 3-p.042** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻9「夏侯淵伝」:曹操は鄴に帰還すると、夏侯淵を行護軍将軍とし、朱霊・路招らが長安に駐屯するのを監督させた。1-p.270*, 2-p.145** 2020年12月08日 建安17年(212)58歳:巻16「鄭渾伝」:梁興の略奪に対して、曹操は夏侯淵を派遣して郡を助けたが、鄭渾は吏民を率いて先頭に立ち、梁興を伐った。2-p.511*, 3-p.201**