2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻22「盧毓伝」:盧毓(盧植の子)が、逃亡した兵士に連座する妻たちの刑罰を軽減するように曹操に進言すると、曹操は「盧毓の意見は正しい。また経典を引いていて内容があり、私を感心させた」と言い、これにより盧毓は丞相法曹議令史となり、西曹議令史に転じた。3-p.650*, 3-p.501** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻22「徐宣伝」:徐宣、曹操に従って寿春に至ったが、ちょうど馬超が反乱を起こし、軍は西征することになった。曹操は役人たちに、寿春一帯はまだ治まっておらず、後の憂いとなるだろうといって、徐宣を左護軍として留め、諸郡を統括させた。3-p.645*, 3-p.492** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻21「劉廙伝」:(劉表のもとから逃亡して曹操に帰属し、丞相掾属となった)劉廙は、転じて五官中郎将文学となる。曹丕は彼を高く評価し、草書でたよりを寄せるように命じ、劉廙は恐縮しつつ、これに従った。3-p.614*, 3-p.422** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻21「王粲伝」:(丞相掾属であった)応瑒は平原侯庶子に転じ、その後、五官将文学となった。3-p.601*, 3-p.392** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻21「王粲伝」裴注引『典略』:陳琳が書簡や檄文を作る際、草稿が出来上がると曹操に見せた。曹操は頭痛に苦しんでいたが、その日、臥して陳琳の作ったものを読むとやおら起き上がり、「これは私の病を治した」と言っていよいよ厚遇した。曹操はかつて阮瑀に韓遂に宛てた書簡を作らせたが、阮瑀が馬上で作成した草稿を、できあがるたびに曹操に見せた。曹操は筆を取って改めようとしたが、どこも改めるべきところがなかった。3-p.601*, 3-p.391** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻18「龐悳伝」:(龐悳はもと馬騰・馬超父子に従い、後に馬超に従って張魯に従属していた。)曹操が関中に張魯を破ったとき、龐悳は衆を率いて投降。曹操は平素から彼の武勇を聞いていたので、立義将軍に拝して関門亭侯に封じた。2-p.545*, 3-p.266** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻18「許褚伝」:許褚は、曹操が韓遂・馬超を潼関で伐つために黄河を渡る際、窮地に陥ったところを救った。曹操は韓遂と単独で会見した際、許褚だけを従わせた。2-p.542*, 3-p.260** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻16「杜畿伝」:韓遂・馬超が反乱を起こすと、弘農・馮翊ではこれに応じるものが多かった。曹操はこれを征伐するのに、杜畿の治める河東に軍食を仰ぎ、後に彼の俸禄を上げた。2-p.496*, 3-p.169** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻15「賈逵伝」裴注引『魏略』:曹操が馬超を討伐する時、楊沛は、孟津を渡る作戦を指揮していて、書付を持たなくて単独行動をした黄門を厳しく責め立てた。黄門は曹操に訴えたが、曹操は、「おまえは死ななかっただけ幸いだ」と言った。関中が平定されると、張既に代わって京兆尹となった。2-p.486*, 3-p.149** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻15「賈逵伝」:曹操は馬超征伐で弘農まで来た時、「ここは西への道の要である」と言い、賈逵に弘農太守を代行させた。召し出して会見し、彼のことを大いに気に入り、左右の者たちに、「天下の地方長官がみな賈逵のようであれば、私は何の心配もない」と言った。後に、賈逵は屯田都尉が亡民をかくまっているのではないかと疑い、厳しく責め立てて怪我を負わせ、そのことで免職となったが、曹操は心中彼のことを良しとし、丞相主簿とした。2-p.481*, 3-p.136**