2020年 一覧情報 2020年12月08日 巻1「武帝紀」:評に言う。漢末、天下は大いに乱れ、豪勇が並び起こったが、その中でも袁紹は四つの州に虎のようににらみを利かせ、強大さでは匹敵するものはいなかった。曹操は策略や計略を広く巡らせ、天下を奮い立たせ、申不害・商鞅の法術を取り込み、韓信・白起の奇策を包括し、官職は才能のある人物に授け、各々その器にふさわしい仕事を与え、情を矯めて、緻密な計算を縦横に働かせ、旧悪を根に持たなかった。最終的に皇帝の機能を手中に収めて統御し、国家の基盤を作るという大いなる仕事を成し遂げられたのは、ひとえにその明晰な知略が最も優れていたからである。ともかくも、非常の人、世に並びなき傑物だと言えよう。1-p.55*, 1-p.121** 2020年12月08日 巻20「武文世王公伝」:武皇帝(曹操)には二十五人の息子がいた。2-p.579*, 3-p.343** 2020年12月08日 巻12「何夔伝」:何夔は正しい道を踏み行ったが、(曹操の)節約倹約の時代にあって最も豪奢であった。2-p.381*, 2-p.422** 2020年12月08日 巻5「后妃伝(卞皇后)」裴注引『魏略』:(曹操、かつて曹昂の死がもとで、丁夫人を離縁。)丁氏が亡くなると、卞皇后の願いにより、曹操は彼女を許城の南に手厚く葬った。その後、曹操は病に苦しみ、歎息して「子修(曹昂)がもし私の母はどこにおりますかと聞いたら、なんと答えたらよいだろう」と。1-p.157*, 1-p.374** 2020年12月08日 巻9「夏侯惇伝」:曹操は、夏侯惇の弟廉の子楙に、自分の娘を娶わせた(清河公主)。1-p.268*, 2-p.141** 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻22「徐宣伝」:曹操が洛陽で崩御して、ある者は諸城守を入れ替えて譙・沛の出身者を起用すべきだと言ったが、徐宣は一喝した。文帝はこれを聞いて、いわゆる社稷の臣であると評価した。3-p.646*, 3-p.492** 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻18「臧覇伝」裴注引『魏略』:曹操が崩御すると、臧覇の配下及び青州兵は、天下はこれから乱れると判断し、みな太鼓を鳴らして勝手に去って行った。文帝は即位後、臧覇の兵を奪った。2-p.538*, 3-p.252** 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻16「蘇則伝」:曹操が崩ずると、西平の麹演が反乱を起こしたが、蘇則はこれを討伐し、降伏させた。2-p.491*, 3-p.157** 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻12「鮑勛伝」:曹操が崩じて太子が王位に就くと、鮑勛は駙馬都尉に侍中を兼任した。(文帝即位の後、しばしば文帝を諌める。)2-p.385*, 2-p.429** 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻22「陳矯伝」裴注引『魏氏春秋』:陳矯はもと劉氏の出であったが、母方のおじの家を継ぎ、もとの劉氏と婚姻関係を結んだ。徐宣は常にこのことを非難して朝廷でその是非をきびしく問責しようとしたが、曹操は陳矯の才量を惜しんで擁護し、令を下して彼への非難を封じた。3-p.644*, 3-p.490**