2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻15「張既伝」裴注引『三輔決録注』:曹操が関中を平定した時、漢興郡に欠員ができたので、曹操は張既に相談し、張既は恩人である游殷の子、游楚を推薦した。2-p.473*, 3-p.119** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻15「張既伝」:馬超が反すると、張既は曹操に従ってこれを破り、関右を平定した。曹操は張既を京兆尹とし、流民を受け入れさせた。2-p.472*, 3-p.117** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻13「王朗伝附王粛伝」裴注引『魏略』:馬超が反乱を起こすと、馬超は賈洪を脅かして無理やり宣伝文を作らせ、洪はやむを得ずこれに従った。その時、司徒の鍾繇は東におり、その文章を彼のものと識別した。馬超が背走すると、曹操は洪を召し出して軍謀掾とした。2-p.421*, 2-p.516** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻13「鍾繇伝」:(天子が長安に移ってから、洛陽の街には人民がほとんどいなくなっていたが、鍾繇は関中の民をここに移住させ、また逃亡者や反乱者を招きいれて洛陽に住まわせたので、数年間のうちに民戸が充実してきた。)曹操が関中を征伐する時、それを人的資産とすることができた。曹操は鍾繇を前軍師に表した。2-p.393*, 2-p.450** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻12「徐奕伝」:徐奕は曹操が西征して馬超を伐つのに従った。関中は服したばかりでまだ安定していなかったので、徐奕を留めて丞相長史とし、西京を鎮撫させた。西京はその威厳と誠実さを称賛した。2-p.377*, 2-p.413** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻11「国淵伝」裴注引『魏書』:曹操は、国淵の死後、その子の泰を郎とした。2-p.340*, 2-p.312** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻11「国淵伝」:誹謗中傷の投書をする者がいて、曹操はこれを悪み、どうしてもその書き手を知りたいと思った。国淵はその投書を内密に保存させ、他方、その書に多く「二京賦」が引用されていることに注目し、理解力のある若者を選ばせ、彼らに「二京賦」を教授してくれる者を探し出させ、その筆跡を保存してあった投書と照合し、かくしてその書き手を捕らえ、事情聴取を行った。2-p.340*, 2-p.312** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻14「程昱伝」裴注引『魏書』:曹操が馬超を征伐した時、曹丕が留守を守り、程昱に軍事に参与させた。田銀・蘇伯らが河間で反乱を起こすと賈信を遣って討伐させた。賊に千人餘の投降者がいて、論者たちはみな旧法に従うのがよいと考えたが、程昱だけは「昔は騒乱の時代だったので、包囲後に降伏した者を死刑にして、天下に威光を示した。今は天下はほとんど安定したし、これは領土内の、当然投降するべき賊なので、昔投降を誅したのとはわけが違う。誅するべきではない」と言った。論者たちは彼の意見を取り上げようとしなかった。曹丕は程昱を引見し、その思いを聞きだし、それを曹操に伝えた。曹操は帰還すると大いに喜び、程昱に「君はただ軍事の計略に明るいばかりではなく、人の父子の間のことにもうまく対処してくれる」と言った。2-p.429*, 3-p.019** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻11「国淵伝」:曹操が関中を征伐した時、国淵に留守番をさせた。田銀・蘇伯が河間で反乱を起こした後、その残党の処罰について、国淵は彼らを首謀者ではないから処刑しないようにと請い、曹操はこれを了承した。国淵を頼って生き延びたものは千人余りもいた。また、賊を破ったことを報告する文書において、旧来はその数を十倍にして記録していたが、国淵は実数を挙げた。曹操がその理由を問うと、国淵は「……河間という領域内で起こった反乱なのだから、その数を大きく言うことは恥じるべきだ」と。曹操は大喜びして、彼を魏郡太守とした。2-p.339*, 2-p.311** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻5「后妃伝(甄皇后)」裴注引『魏書』:七月、曹操が関中を征伐した時、卞皇后はお供をして孟津に滞在した。1-p.160*, 1-p.384**