2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻17「徐晃伝」:韓遂・馬超が反乱を起こすと、曹操は徐晃に河東を鎮撫させ、牛酒を賜り、彼の先祖の墓を祭らせた。曹操、潼関まで来ると、黄河を渡れないのではないかと懸念し、徐晃を召し出して相談した。徐晃は渡河の計略を申し出て、これにより曹操は渡ることができた。2-p.528*, 3-p.234** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻36「馬超伝」裴注引『典略』:(曹操の馬超征伐について記す。)4-p.946*, 5-p.180** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻36「馬超伝」:曹操は韓遂・馬超と単独の馬に乗って語り合ったとき、馬超はその力を頼んでひそかに突進して曹操を捕らえようとしたが、曹操の左右の将軍たちが目を怒らしてにらんでいたので、動けなかった。曹操は賈詡の計略を用いて馬超と韓遂との間を引き離して互いに猜疑心を持たせたので、軍は大敗した。馬超は敗走して諸々の蛮族を手なずけ、曹操は安定まで追撃したが、ちょうど北方で騒ぎが起こったので軍を引き返し東へ戻ることになった。楊阜は曹操に説いて、「馬超は韓信や黥布のような勇気を持ち、羌・胡の心をよくつかんでいる。もし軍を引き返すのなら厳重にその備えをしなければ隴上の諸郡は国家のものでなくなるだろう」と言った。馬超は果たしてそのとおりの動きに出た。4-p.945*, 5-p.179** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻24「高柔伝」:曹操が鍾繇らを派遣して張魯を討伐しようとした時、高柔は、今みだりに軍を動かせば、韓遂や馬超らが自分を討伐するために挙兵したと考えて反逆を為すだろうから、先に三輔を平定し、その後に漢中に檄を飛ばして平定すべきだと諌めた。鍾繇の入関後、果たして韓遂・馬超らは反した。3-p.683*, 4-p.074** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻25「楊阜伝」:曹操が敗戦した馬超を追って安定まで来た時、蘇伯が河間で反乱を起こしたので、軍を引き上げて東へ戻ろうとした。楊阜はこれを諌めて、「馬超は羌・胡の心をつかんでいるので、もし大軍を引き上げるのであれば厳重にこのために備えをしなければ隴上一帯の土地は国家のものではなくなるだろう」と言った。曹操はこれを善しとしたが、軍隊の帰還が慌しかったために、備えが不十分となった。3-p.701*, 4-p.114** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻21「衛覬伝」裴注引『魏書』:関西の諸将は、表面的には服従するように見せて、内心は信用できない情況だった。司隷校尉の鍾繇は、三千の兵を率いて関中に入り、張魯を討伐するふりをして、諸将から人質を取ろうとした。曹操は荀彧を通じて衛覬に相談し、関中の諸将をとりあえず厚遇しておくのがよいという衛覬の意見に始めは従ったが、鍾繇がその任務を統括していたために、結局は鍾繇の意見に従った。その結果、多くの犠牲者を出すこととなり、曹操は衛覬の論に従わなかったことを後悔し、いよいよ衛覬のことを重んずるようになった。3-p.611*, 3-p.416** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻37「蜀書・法正伝」:張松と法正とは先主(劉備)と結ぼうとしていたが、劉璋が曹操の張魯討伐の計画を聞いておびえているということに因り、先主と申し合わせて劉璋を捕らえた。4-p.957*, 5-p.202** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻32「蜀書・先主伝」:建安十六年、益州牧劉璋は、曹操が鍾繇らを漢中に遣って張魯討伐しようとしていると聞き、内心恐れた。別駕従事の蜀郡の張松は劉璋に「曹操の兵は天下無敵の強さで、もし張魯の資によって蜀土を取ったら、誰もこれを防御できない」「劉豫州(劉備)はあなたの宗室で曹操の仇敵、兵をよく用いるので、張魯を討伐できるだろう。張魯が敗れれば、益州は強大になり、曹操が来てもどうすることもできない」と説いた。4-p.881*, 5-p.047** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」裴松之注:私裴松之が考えるに、漢の高祖二年、楚と滎陽京・索の間で戦った時、甬道を築いて河に連ね、敖倉の粟を取った。これについて応劭は、「敵が輜重を取るのではないかと恐れて、街路のように垣根を築いたのである」と言っている。今、魏武帝は垣根を築かずに、ただ車を連ね柵を立てただけで両面を防いだ。1-p.36*, 1-p.080** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」:(関中の軍閥を討伐)諸将が曹操に「初め、賊は潼関を守り、渭北の道には隙があったのに、河東から馮翊を伐たず、却って潼関で敵と対峙し、日を長引かせてから北に渡ったのはなぜでしょうか」と問うと、曹操は「賊が潼関を守っていた時に、もし私が河東から入れば、彼らはきっと退却して諸々の津を守るだろう、そうすれば西河は未だに渡れなかっただろう。私はだから兵を盛んにして潼関に向かったのだ。賊は全軍挙げて南方を守り、西河の守備がおろそかになった。だから、二人の将軍(徐晃・朱霊)は西河を思いのままに取ることができたのだ。その後、軍隊を率いて北へ渡ったが、賊が私と西河をめぐって争えなかったのは、二人の将軍の軍勢があったためである。車を連ね、柵を立て、甬道を作って南へ赴き、しばらくして勝つことができないと見せかけて、しばらく弱いような様子を示し、渭水を渡って堅い土塁をつくり、敵がやってきても出撃しなかったのは、彼らを思い上がらせるためであった。だから賊は軍営も築かずに土地の割譲を求めてきた。私は彼らの言葉に従ってこれを許したのは、彼らの意に従っておいて、安心させ備えをさせないようにするためであった。そうして士卒の力を蓄えておいて、一挙に彼らを撃った。いわゆる「急な雷には耳を覆う暇もない」である。兵には様々な変化があり、戦術はもとより一つではないのである。」始め、賊が一部来るごとに、曹操は嬉しそうな表情を見せた。賊が敗れて後、諸将がその理由を問うと、曹操は「関中への道のりは長く遠いので、もし賊がそれぞれ険阻な土地に割拠したら、これを征伐するのに一二年もなければ平定することはできないだろう。今、みな集まってきて、その衆は多くとも、お互いに服従することはなく、軍に適当な大将もいないので、一挙に滅ぼすことができて、功績を挙げることが比較的容易だ。だから私は喜んだのだ」と答えた。1-p.35*, 1-p.077**