2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」:(関中の軍閥を討伐)別の日、曹操はまた韓遂に書簡を送ったが、あたかも韓遂が改定したかのように、改竄の痕を多く作ったので、馬超はいよいよ韓遂を疑った。そこで曹操は期日を決めて会戦し、まず軽兵でもって挑発し、戦いがやや久しくなると、虎騎を縦横に放って挟み撃ちにし、大いにこれを破って、成宜・李堪らを斬った。韓遂・馬超らは涼州へ敗走し、楊秋は安定に奔り、関中は平定された。1-p.35*, 1-p.077** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻10「賈詡伝」:曹操が韓遂・馬超と渭南において戦った時、馬超らは土地を割譲して和睦せんことを求め、また人質を求めてきた。賈詡は偽ってこれを許すのがよいと考えた。また賈詡に計略を問うと、賈詡は、「彼らを分離させるだけだ」と。曹操は「わかった」と。全てにおいて、賈詡の謀略を用いた。2-p.330*, 2-p.289** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操は後日、また韓遂らと会見したが、諸将は「公が賊と言葉を交わすのに、軽率なことがあるのはよろしくない。木で通行止めの柵を作り、防御の備えをしたほうがよい」と言った。曹操はもっともだと考えた。賊が曹操に会見しようとする時、みな馬上にて拝礼し、秦や胡の見物人たちは前後にひしめき合っていた。曹操は笑って賊に「お前たち、曹操を見たいのか。曹操もまた人間だ。四つの目、二つの口を持っているわけではない。ただ知恵が多いだけなんだよ」と言った。胡人は前後に折り重なって見物した。また鉄騎五千を十重に隊列させ、鋭い光が日に輝いたので、賊たちはいよいよ震え上がった。1-p.36*, 1-p.080** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」:九月、軍を進めて渭水を渡った。馬超らは何度も挑戦してきたが、また付け入る隙を与えなかった。土地を分割するよう固く求めて、人質を送ろうと申し出てきたので、曹操は賈詡の計略を用いて、偽ってこれを許した。韓遂は、曹操との会見を求めてきたが、曹操は韓遂の父と同年に孝廉に挙げられた仲で、また韓遂と同じ時に挙兵した仲間なので、そこで馬を交えてしばらく語り合ったが、話題は軍事に及ばず、ただ都の昔話をし、手をたたいて笑い楽しんだだけだった。それが終わると、馬超らは韓遂に「公は何を言っていたのか」と聞いたので、韓遂は「別に何もない」と答えたが、馬超らはこれを疑った。1-p.34*, 1-p.077** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻36「馬超伝」裴注引『山陽公載記』:曹操が蒲阪から西に渡ろうとしたとき、馬超は韓遂に、渭北で防御すれば、すぐに食糧不足になって敗走するだろうと言ったが、韓遂はこの計略を用いなかった。曹操はこれを聞くと「馬の小童が死ななければ、私の埋葬地もない」と言った。4-p.946*, 5-p.180** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:時に、曹操の軍は渭水を渡るたびに馬超の騎兵に遮られ、軍営は設けることができず、土地もまた砂が多くて、土塁を築くことができなかった。婁子伯は曹操に「今は寒い時期なので、砂を盛り上げて城壁を作り、これに水をかければよい。一晩ほどで完成です」と説いた。曹操はこれに従って、絹の袋をたくさん作って水を運び、夜のうちに兵士を渡して城壁を作らせた。明け方には城壁が立ち、これによって曹操の軍はみな渭水を渡ることができた。(裴松之コメント:ある者は、九月では水はまだ凍っていないはずだと疑義を呈している。私が考えるに、『魏書』に「公の軍は八月に潼関に到着し、閏月に北に向かって河を渡った」とある。とするとそれはその年の閏八月である。この時に至って大寒波がやってくるなどありえようか。)1-p.36*, 1-p.079** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:曹操が河を渡ろうとして前の隊がちょうど渡ろうとした時、馬超らが急にやってきたが、曹操はなお胡牀に坐して立ち上がらなかった。張郃らは状況が切迫しているのを見て、共に曹操を船の中に引き入れた。河の水の流れは急で、渡り終わる頃四五里も流されていた。馬超らは騎馬で追ってこれを射り、矢は雨のように降り注いだ。諸将は軍が敗れたと見て、曹操の所在もわからず、みな慌て恐れたが、曹操の姿を見ると、悲しみと喜びが湧き上がり、涙を流す者もいた。曹操は大笑いして、「今日はほとんど賊の小僧にやり込められるところだったよ」と言った。1-p.35*, 1-p.079** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」:七月、曹操は西征し、馬超らと関を挟んで陣取った。曹操は激しく守備する一方、ひそかに徐晃・朱霊らを遣って、夜に蒲阪津を渡り、河西に依拠して陣営を張らせた。曹操は潼関から北に渡ったが、未だ渡りきらない時に馬超が船に向かって激しく攻撃した。そこで校尉の丁斐が牛馬を放って賊をおびき寄せると、賊は入り乱れて牛馬を取ったので、曹操はやっと渡ることができて、河に沿って甬道を作り南へ向かった。賊は退却すると、渭口で防御したが、曹操はそこで多くの疑兵を設けて、ひそかに舟に乗せて渭水へ入り、浮き橋を作り、夜、兵士を分割して渭水の南に陣営を作らせた。賊は夜に陣営を攻撃してきたが、伏兵がこれを撃破した。馬超らは渭南に駐屯し、書信をよこして黄河以西を分割するよう要求し、講和を求めてきたが、曹操は許さなかった。1-p.34*, 1-p.076** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:議する者の多くは、関西の兵は強く、長矛を扱うのに慣れているから、精鋭の兵士を先鋒とするのでなければ太刀打ちできないだろうと言った。曹操は諸将に「戦いの主導権は我らの側にあり、賊にあるのではない。賊は長矛の扱いに慣れていても、刺すことができないようにさせてやろう。諸君はただ見ているだけでよろしい」と言った。1-p.35*, 1-p.078** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」:張魯が、漢中に割拠した。三月、鍾繇を派遣して討たせた。曹操は夏侯淵らに命じて河東を出て鍾繇と合流させた。この時、関中の軍閥たちは鍾繇を疑い、自ら攻撃を仕掛けようとした。かくして馬超は韓遂・楊秋・李堪・成宜らと反乱を起こした。曹操は曹仁を遣ってこれを討伐させた。馬超らは潼関に駐屯し、曹操は諸将に勅して「関西の兵士たちは精悍だ。砦を固めて、彼らと戦ってはならない」と言った。1-p.34*, 1-p.076**