2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻9「夏侯淵伝」:曹操は夏侯淵を行征西護軍に任命して、徐晃が太原の賊を攻撃するのを監督させた。1-p.270*, 2-p.144** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」:太原の商曜らが、大陵に拠って反乱を起こしたので、夏侯淵・徐晃を派遣して、包囲しこれを破らせた。1-p.34*, 1-p.076** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻11「邴原伝」裴注引『邴原別伝』:曹丕が五官中郎将となり、世の人々はみな彼のもとに集まったが、邴原はひとり道を守り、いつもどおりの態度で、公的なことでなければ妄りに動いたりすることはなかった。曹操は人をやって、それとなく邴原にこのことを聞いてみたところ、邴原は、「私は、伝統的規範として、国家が危険な時は宰相に仕えず、君主が老年の時は跡継ぎには仕えない、と聞いている」と。そこで曹操は邴原を五官長史に転任させ、「わが子は弱くて才能がなく、是正しがたいのではないかと懼れている。どうか激励し矯正してやってくれ。賢者を利することになるが、恥じている場合ではない」との令を発した。曹丕が宴会を開き、衆賓百数十人が集う中、太子は次のような問いかけをした。「君主と父とどちらも重病にかかっていて、薬が一つしかなく、一人しか救えない場合、君主を救うべきか、父を救うべきか」と。衆人たちは口々に、君主だの父だのと意見を述べた。時に、邴原はそこに居合わせながら論に加わらなかった。太子が邴原に問うと、原はきっぱりと「父だ」と言ったので、太子もそれ以上難詰できなかった。2-p.353*, 2-p.345** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻11「邴原伝」:邴原は、涼茂に代わって五官将長史となったが、門を閉じて身をつつしみ、公的なことでなければ外出しなかった。2-p.351*, 2-p.338** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻23「杜襲伝」:夏侯尚は太子(曹丕)と親密だったが、杜襲は尚のことを益友ではなく特別待遇するに足りないと考え、曹操に進言した。曹丕は最初は非常に不愉快に思ったが、後になって思い返した。3-p.667*, 4-p.037** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻9「夏侯尚伝」:夏侯尚(夏侯淵の従子)は、曹丕と親しく付き合い、五官将の文学となった。1-p.293*, 2-p.200** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻26「郭淮伝」:曹丕が五官中郎将になると、郭淮を召して門下賊曹としたが、転じて丞相兵曹議令史となって漢中征伐に従った。曹操が帰還するとき、征西将軍の夏侯淵を留めて劉備への守備に当たらせ、淮を夏侯淵の司馬とした。3-p.733*, 4-p.179** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻23「常林伝」:曹丕が五官中郎将となると、常林は功曹となった。曹操が西征すると、幽州・冀州で田銀・蘇伯が反乱を起こした。曹丕は自らが出征して討伐しようとしたが、林はこれを諌め、曹丕はその意見に従って、将軍を派遣してこれを収めた。3-p.659*, 4-p.018** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻19「任城威王彰伝」」:曹彰(?―223。曹操と卞皇后との子。曹丕の弟、曹植の兄)はしばしば征伐に従い、激しい気性だった。曹操はこれを抑えて「お前は本を読んで聖人の道を慕うということをせずに、馬に乗って剣を振り回すことばかり好んでいるが、これは一夫の用であって、尊ぶに足りない」と言い、彰に詩・書を読むことを課したが、彰はこのことを側近にぼやいていた。曹操は子どもたちにそれぞれ好むところを問い、その抱負を述べさせたが、彰は武将になりたいと言った。曹操はこれを聞いて笑った。2-p.555*, 3-p.287** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:正月庚辰(12日)、天子は(曹操への)返書を出し、「食戸五千を減じ、譲られた三県の一万五千戸を分割して(曹操の)三人の息子に与える。曹植は平原侯、曹拠は范陽侯、曹豹は饒陽侯に封じ、食邑は各々五千戸とする」と。1-p.34*, 1-p.076**