2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」:正月、天子は曹操の跡取りである曹丕を五官中郎将に任命し、(丞相の)属官を置いて、曹丕を丞相副に命じた。1-p.34*, 1-p.076** 2020年12月08日 建安15年(210)56歳:巻3「明帝紀」裴注引『魏書』:曹操、五六歳の頃から聡明な明帝曹叡を、「我が基は、爾に於いて三世ならん」と高く評価した。曹叡は、宴席で侍中近臣らとともにあり、学問を好み、特に法理に留意した。1-p.91*, 1-p.220** 2020年12月08日 建安15年(210)56歳:巻54「呉書・周瑜伝」裴注引『江表伝』:初め、曹操は周瑜が若いのにすばらしい才能を持っていると聞いて、人を遣って言葉でその心を動かせると思い、ひそかに九江の蒋幹を遣って周瑜に会見させたが、周瑜は堂々と対処し、これによって中原の人々は称賛した。……曹操は赤壁の戦いで敗れたとき、周瑜に負けたのだから自分は敗走を恥ずかしいとは思わないと言ったが、後に孫権に宛てた書簡では、赤壁の戦いでは疫病が流行ったために船を焼いて退却したが、みだりに周瑜に名を馳せさせることになった、と述べた。5-p.1265*, 7-p.064** 2020年12月08日 建安15年(210)56歳:巻54「呉書・魯粛伝」:劉備が孫権に、荊州の都督たらんことを申し出ると、魯粛だけが孫権に、劉備の荊州借用を認めてやり、蜀とともに曹操に対抗するのがよいと勧めた(同伝裴注引『漢晋春秋』に、魯粛の言葉を載せる)。曹操は孫権が劉備に土地を貸したことを聞くと、ちょうど書簡をしたためていたが、筆を取り落とした。5-p.1270*, 7-p.079** 2020年12月08日 建安15年(210)56歳:巻54「呉書・周瑜伝」:劉備、京(鎮江)で孫権に会見し、荊州の借用を申し出る。周瑜は上疏して、これに反対したが、孫権は、曹操が北にいるので英雄を広く手なずけるべきだと思い、また劉備を征圧することは難しいのではないかと判断して、その進言を納れなかった。この時、劉璋が益州牧で、張魯の侵略に苦しんでいた。周瑜は京で孫権に会見し、曹操が敗戦したばかりで内部から事変がおこるのではないかと憂えている今、北方に出陣すべきだと進言し、孫権はこれを許可したが、周瑜はまもなく死去した。5-p.1264*, 7-p.061** 2020年12月08日 建安16年(211)57歳:巻19「陳思王植伝」:曹操はかつて曹植の文を見て「おまえは人を雇ったのか」と聞いた。時に鄴に銅雀台が完成したばかりで、曹操は諸子を連れて台に上り、それぞれ賦を作らせた。曹植は筆を執るなり完成させたので、曹操は非常にこれを異とした(陰澹『魏紀』に曹植の賦を載せる)。曹植はざっくばらんな性格で外面を飾らず、難問にも即座に応じたので、曹操に特に寵愛された。2-p.557*, 3-p.291** 2020年12月08日 建安15年(210)56歳:巻40「劉封伝」裴注引『魏略』:申耽は、西平・上庸のあたりに衆数千家を集めており、後に張魯と通じた。また使者を曹操のもとに派遣した。曹操は号を加えて将軍とし、上庸都尉を領せしめた。4-p.994*, 5-p.277** 2020年12月08日 建安15年(210)56歳:巻32「蜀書・先主伝」裴注引『献帝春秋』:孫権は劉備とともに蜀を取ろうとして、劉備に使者を派遣して言った。「米賊の張魯は巴・漢に拠点を構えて曹操の耳目になっている。もし曹操が蜀を得たら荊州も危うくなる」云々と。劉備は答えて、「張魯はうそつきなので必ずしも曹操に忠義を尽くすとは限らない」「曹操は君主をないがしろにする気持ちを持っているが、君主を奉戴しているという大義名分がある。論者は曹操が赤壁の戦いで敗退したので遠征しようという意志はもう持っていないと見ているが、今、曹操は天下の三分の二を手に入れ、さらに勢力を広めようとしている。今荊州を故なくして攻めるのは曹操に枢軸を貸すようなものだ」と言って孫権に反対した。4-p.880*, 5-p.045** 2020年12月08日 建安15年(210)56歳:巻11「邴原伝」:邴原の娘は早くに亡くなっており、曹操の愛息倉舒(曹沖)もまた没したので(建安13年)、曹操は合葬を求めようとしたが、邴原は、合葬は礼に非ずとしてこれを辞退し、曹操は取りやめた。丞相徴事に転任した(献帝起居注に、建安十五年のこととして記す)。2-p.351*, 2-p.338** 2020年12月08日 建安15年(210)56歳:巻10「荀彧伝」裴注引『献帝春秋』:(200年、董承、誅せらる。伏后が伏完に宛てた手紙について、荀彧は久しく沈黙していた。)荀彧は後に事の発覚を恐れ、自らこれを明るみに出そうとして、自ら求めて使者として鄴に赴き、曹操に娘を皇帝に配してはどうかと勧めた。曹操が「今朝廷には伏后がいるのに、私の娘がどうして皇帝に配せられるのか。私はわずかな功績が認められて宰相の位に就いているのに、どうしてこの上更に娘の寵愛に頼ろうか」と言うと、荀彧は「伏后には子が無く、かつて父に書簡を送りってその言が醜悪であったから、これに因って廃するのがよいだろう」と言った。曹操が「君はその昔どうしてこのことを言わなかったのだ」と言うと、荀彧は驚いたふりをして「昔すでに公に言いました」と。曹操が「このことはどうして私が忘れるほど小さなことだろうか」と言うと、荀彧はまた驚いて「本当に公に話していなかったでしょうか。昔、公は官渡で袁紹と対峙していたので、内部のことについての思い煩いを増やしはしないかと恐れて、それで言わなかったのでしょう」と。曹操が「官渡の後、どうして言わなかったのだ」と言うと、荀彧は答えず、落ち度をわびるばかりだった。曹操はこれによって荀彧を恨んだが、外面上は容認するように見せたので、世の人々は曹操の本心を知ることはできなかった。2-p.318*, 2-p.260**