2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻20「鄧哀王(曹)沖伝」裴注引孫盛の評:春秋の義として、長子を立てるべきだし、曹沖が死んでからもなおこのような発言をするとは、曹操は言葉を軽んじている。2-p.581*, 3-p.347** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻20「鄧哀王沖伝」:曹操が跡継ぎに考えていた曹沖は、十三歳で病気になり、曹操は自ら命乞いをした。亡くなると、曹操はひどく悲しんだ。曹丕が慰めると、「これは我が不幸だが、お前たちにとっては幸いだ」と言った。彼について語れば涙を流した。甄后の亡くなった娘と合葬した。曹琮に後を継がせた。2-p.580*, 3-p.346** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻39「蜀書・劉巴伝」裴注引『零陵先賢伝』:曹操は烏林で敗北して、北に帰還するとき、桓階を遣わそうとしたが、桓階は自分は劉巴には劣るとしてこれを辞退した。劉巴は曹操に「劉備が荊州に拠っているから、だめだ」と請願したが、曹操は「劉備がもし図ったら、私は六軍を率いて君の後に付こう」と言った。4-p.980*, 5-p.251** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻12「邢顒伝」:邢顒、丞相門下督となり、左馮翊に移り、病で官を去る。2-p.383*, 2-p.425** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻12「何夔伝」:何夔は、楽安太守から、中央に戻って丞相の東曹掾となった。何夔は曹操に、人材登用の厳正を期するために、郷里での評判に照らすこと、長幼の秩序を守ること、報償を公明正大にすること、推薦内容に事実との乖離が認められた場合の法令を整えること、などを進言した。曹操はこれを善しとした。2-p.381*, 2-p.421** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻12「司馬芝伝」:官の練絹が盗まれたことについて、吏員は女工を疑ったが、司馬芝は、簡明で従い易い大人の教化というものを説き、女工を釈放するのがよいと発議した。曹操はそれに従った。2-p.387*, 2-p.434** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻12「司馬芝伝」:後に広平県の令となった司馬芝は、征虜将軍である劉勲から無署名の懇願を退けたが、ひとしなみに法に基づいて処理した。2-p.387*, 2-p.434** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻56「呉書・朱治伝」:孫権の従兄、豫章太守の孫賁は、娘が曹操の子の妻で、曹操が荊州を破って南土に勢力を及ぼしてきたとき、賁は恐れて子を人質に入れようとしたが、朱治に諌められて止めた(同伝裴注引『江表伝』に、朱治が賁を諌めた言葉を載せる。)5-p.1304*, 7-p.160** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻12「崔琰伝」裴注引『呉書』:劉表亡き後、曹操が荊州に向かうと、劉表の子の劉琮が割符を持って曹操を出迎えた。諸将は皆これを疑った。曹操は婁圭に意見を聞いた。婁圭は、偽りはないと判断した。曹操はこれに従って進軍した。曹操は婁圭に莫大な褒美を与え、「婁圭の富は私よりも大きい、ただ、権力だけが私に及ばないだけだ」と言った。2-p.374*, 2-p.405** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻11「王脩伝」裴注引『魏略』:(脂習は孔融と仲がよく、曹操に対する態度が傲慢だった孔融に忠告していたが)、孔融が殺されて、許昌の百官たちで孔融と親しかった者の誰も、彼の屍を引き取ろうとしなかったが、脂習だけが赴いて屍を撫し、これを哭した。曹操はこれを聞くと習を捕らえて裁判にかけようとしたが、まもなくその行為の真っ直ぐさによって赦され、許の東の土橋のふもとに転居した。習は後に曹操に会見し、前の過ちを謝罪した。曹操は彼の字を呼んで「君はもともと気概があったからなあ」と言い、その居所を問い、穀百斛を賜った。(黄初年間に入っても大切にされた。)2-p.349*, 2-p.335**