2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻54「呉書・周瑜伝」裴注引『江表伝』:孫権は剣を抜いて奏案に斬りつけ、曹操を迎え入れると言う者はこの案と同じようにする、と言い、その夜、周瑜が孫権に会見して意見を述べた。『江表伝』に対して裴松之は、曹操を撃退するよう建議したのは魯粛が最初だという。5-p.1262*, 7-p.056** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻54「呉書・周瑜伝」:九月、曹操が荊州に入ってきて、劉琮は衆を挙げて投降し、曹操はその水軍を手に入れた。孫権は群臣を集めて計略を問うた。議する者たちは、「曹操は豺虎なのに、漢の宰相と名乗り、天子を擁して四方を征圧し、どうかすると朝廷を口実にしているので、今日これを拒むと事は面倒になる。そもそも曹操の襲来を拒むことができたのは長江のおかげだったが、今曹操は荊州を手に入れて、長江の険阻は、我が軍も曹操軍も等しく是を共有している。しかも、勢力ではとてもかなわない。ここは曹操軍を迎え入れた方がよい」と言ったが、周瑜は、「曹操は漢の宰相という名に託して、実は漢の賊である。……曹操は自ら死ににやってきたようなものなのに、これを迎え入れてよいものか。……馬超や韓遂がなお関西にいて、曹操の後患となっている。また、中原の人々は船での戦いに慣れていない。今は冬で馬を養う草に乏しい。中原の人々は慣れない土地を移動しているのできっと疫病が発生するだろう。これらのリスクを曹操はみな冒している。将軍は曹操を今こそ捕らえるべきだ。」と言って曹操討伐を申し出た。5-p.1261*, 7-p.054** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻47「呉書・呉主伝」裴注引『江表伝』:曹操の孫権に送った書簡を載せる。5-p.1118*, 6-p.079** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻47「呉書・呉主伝」:(呉が蜀と同盟関係を結ぼうとした頃)曹操は劉表の衆を得て形勢は非常に盛んであった。議論する者たちは皆恐れ、曹操を迎え入れるよう孫権に勧めたが、周瑜と魯粛だけは曹操への抵抗を主張し、孫権の意向と合致した。5-p.1117*, 6-p.078** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻13「王朗伝附王粛伝」裴注引『魏略』:隗禧は京兆の人、世々単家であった。初平中、三輔は乱れ、禧は南のかた荊州に身を寄せ、農耕の合間には常に経書を誦習していた。曹操が荊州を平定して後、その軍謀掾に召しだされた。2-p.422*, 2-p.518** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」裴注引孫盛『異同評』:『呉志』では、劉備がまず曹操の軍を破ってから、孫権が合肥を攻めたことになっているが、武帝紀では孫権がまず合肥を攻め、その後に赤壁の戦いがあったように記されている。両者は同じでないが、『呉志』の方が正しい。1-p.31*, 1-p.070** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」裴注引『山陽公載記』:曹操の船は劉備に焼かれ、軍を率いて華容の道から歩いて帰ったが、泥濘に行き当たって通れず、また大風が吹いたので、弱い兵士に草を背負わせ、泥濘を充填して騎馬でやっと通れた。弱い兵士たちは人馬のために踏みつけられて泥の中に沈み、多くの死者が出た。軍がみな脱出できてから、曹操は大喜びした。諸将がこれを問うと、曹操は「劉備は私と同等だ。ただ計略を思いつくのが少し遅い。もし早くに放火されていたら、私はただもう全滅だっただろう」と答えた。劉備はまもなく火を放ったが、間に合わなかった。1-p.31*, 1-p.069** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」:益州牧の劉璋、始めて懲役を受け入れ、兵士を曹操の軍に供給した。十二月、孫権、劉備のために合肥を攻撃。曹操は江陵から劉備を攻め、巴丘に至り、張憙を派遣して合肥を救援。孫権は張憙の到来を聞くと敗走。曹操、赤壁に至り、劉備と戦って苦戦。おりしも疫病が大流行し、吏士に多く死者が出たので、軍を引き返して帰還。劉備はかくして荊州・江南の諸郡を手に入れた。1-p.30*, 1-p.067** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻33「蜀書・後主伝」裴注引『魏略』:(劉備、荊州に奔る。)時に劉禅は数歳、人について行ってこっそり漢中に入り、人に売られた。4-p.893*, 5-p.073** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻36「蜀書・趙雲伝」:先主が当陽長阪で曹操に追い詰められたとき、妻子を棄てて南へ奔ったが、趙雲は幼子(後の後主)を抱き、甘夫人(後主の母)を保護した。4-p.948*, 5-p.185**