2020年 一覧情報

2020年12月08日
建安25年(22066歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:曹操の人柄は軽佻浮薄で威厳がなく、音楽を好み、朝から夕方まで、常に倡優がすぐ側に仕えているという状態であった。被服は軽い絹で、自ら小さな皮袋を身につけ、ハンカチやこまごまとした物を入れていた。時には帢帽(簡便なかぶりもの)をかぶって賓客と会見した。人と談論する時は常にふざけ半分で、全く包み隠すところがなく、喜んで大笑いすると、頭を食器の中に突っ込んで、ご馳走で頭巾がびしょびしょになる、その軽佻浮薄さはこのようであった。しかし、法律を基準にすることは大変峻厳で、諸将のうち、計画が自分よりも勝っているものがあると、後に法によって処罰し、古馴染みに対する旧怨も、みな余すところなく処罰した。その処刑にあたっては、いつも受刑者に対して涙を流して嘆き悲しんだが、最後まで生かしてやることはなかった。その初め、袁忠が沛国の相であった時、法によって曹操を処罰しようとしたことがあった。沛国の桓邵もまた彼を軽んじた。兗州にいた時には、陳留の辺譲が言論でかなり曹操の気持ちを害した。曹操は辺譲を殺し、その一家を皆殺しにした。袁忠、桓邵はともに交州に避難したが、曹操は使いを太守の士夑のもとに遣って彼らを一族皆殺しにした。桓邵は出頭し、庭中で謝罪することを得たが、曹操は「跪いて死を免れることができるものか」と言って、ついに殺した。かつて行軍で麦畑の中の道を通っていた時、「士卒は麦を損なってはならぬ。これを犯した者は死刑」と命令した。騎士はみな馬を下り、麦畑に沿って馬をなだめながら進んだ。ところがその時、曹操の馬が躍り上がって麦畑の中に入ってしまったので、主簿に勅命を下して処罰を議論させた。主簿は春秋の義では、尊者には罰を加えないと答えた。曹操は、「法を制定しておいて自らこれを犯すというのでは、何を以て部下を統率することができよう。だが私は軍の統率者だから自殺することはできない。どうか自分で自分を処罰させてくれ」と言って、そこで剣を手に執って髪を割き、地面に置いた。また、ある寵姫がかつて曹操の昼寝に付き従った。曹操は彼女の膝枕で横になり、「しばらくしたら私を起こしてくれ」と言った。姫は曹操がぐっすり眠っているのを見て、すぐには起こさなかった。曹操は自ら目覚めると、棒で彼女を殺した。かつて賊を討伐した時、穀物が足りなくなったので、ひそかに担当者に「どうするか」と聞くと、担当者は「小さな枡で量って充足すればいい」と言った。曹操は「よろしい」と言った。後に、軍中では曹操が衆を欺いているとうわさになったので、曹操は担当者に「ここは特別に君の死を借りて衆を制圧しなければならない。そうでないと、事態は解決しない」と言い、かくして彼を斬り、その首を取り、「小さな枡を用い、官の穀物を盗んだので、これを軍門において斬った」という触書を出した。その残虐さ、虚偽を用いた駆け引きは、みなこれに類する。1-p.55*, 1-p.120**
2020年12月08日
建安25年(22066歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操は自ら海内を統御し、諸々の悪人たちを平らげたが、その軍事を行うのにはだいたい孫子・呉子の兵法に従って、事に因っては奇襲作戦を設け、敵を欺いては勝利を収め、その臨機応変さは神のようであった。自ら兵書十万余言を著し、諸将が征伐に出かける時には、みな新しい兵書によって従事した。事に臨んでは自ら采配を揮い、これに従うものは勝利し、これに背くものは敗れた。敵に相対している時はゆったりとした態度で、まるで戦うつもりがないかのようだが、いざチャンスを捉えて勝利の波に乗る時には気力がみなぎった。だから戦うたびに常に勝利を収め、やっとのことで勝つという戦いは無かった。人を見抜く力に秀でていたから、見せ掛けで彼をだますことは難しかった。軍隊の兵士たちの間から、于禁や楽進を抜擢し、滅ぼした敵の中から、張遼や徐晃を取り上げたが、彼らはみな建国の大業を助けて功績を立て、名将に列せられた。その他、卑賤な身分から抜擢されて牧や太守に登った者は数限りなくいる。だからこそ、天下平定の大事業を起こし、文武ともに世に施すことができたのだ。軍隊を御すること三十余年の間、手には書物を手放さず、昼は軍事的策略をめぐらし、夜には経書や歴史書に思いを馳せ、高きに登りては必ず詩を賦し、新しい詩ができるとこれを管絃に乗せ、全て歌曲の歌辞となった。才能・力量とも凡人を超越し、手ずから飛鳥を射、自ら猛獣を捕らえた。かつて南皮において一日雉を射て六十三頭を捕獲した。宮室を造営したり、器材を修理したりするときは、常にその基準を作ったが、みなその用途に合致したものだった。本性は倹約家で、華美を好まず、後宮の衣服にも錦や刺繍を用いず、側に仕えるものの履物も二色は用いず、帳や屏風は壊れれば修繕し、布団も暖かければ十分として、縁飾りなども付けなかった。城や邑を攻撃して破り、美麗なる物を獲得した場合には、功績のあった者に尽く与えた。賞揚すべき勲功を上げた者には、千金を惜しまず、功績のない者が賞与を期待しても、ほんの少しも与えなかった。四方から献上された物は、群臣たちと分け合った。常に、葬送の制度や帷子の数など、煩雑なだけで無益であるのに、世間では不必要に行っていると考えていた。だから、死んだ時の衣服を、四つの衣装箱だけとあらかじめ自分で決めておいたのである。1-p.54*, 1-p.117**
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