2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻22「桓階伝」:曹操は荊州を征伐すると、桓階がかつて張羨(荊州の太守)に曹操に従うべきを説いたことを知って高く評価し、桓階を辟して丞相掾主簿とし、後に趙郡太守に遷した。3-p.632*, 3-p.464** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻21「王粲伝」裴注引『魏略』:(邯鄲淳は初平年間、三輔から荊州に移った。)荊州が降伏すると、曹操はもとより邯鄲淳の名を聞き知っていて、召し寄せて会見し、たいへん尊敬した。3-p.603*, 3-p.396** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻18「文聘伝」:(文聘はもと劉表の配下にあった人物。)曹操が荊州を征伐すると、そのもとへ出頭した。文聘の荊州への思いに曹操は愴然として、「仲業よ、あなたは真の忠臣だ」と言って厚く礼遇した。文聘に兵を授け、曹純とともに劉備を長阪に追撃させた。また、江夏太守に任命した。2-p.539*, 3-p.254** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻14「郭嘉伝」裴注引『傅子』:曹操は何度も荀彧に書簡を送り、郭嘉を追悼した。2-p.436*, 3-p.034** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻14「郭嘉伝」:その初め、陳羣は郭嘉の品行の治まらないのを非難し、何度も朝廷で郭嘉のことを訴えたが、郭嘉は意に介さなかった。曹操はいよいよ郭嘉を重んじたが、陳羣のことも、よく公正さを堅持しているとして喜んだ。2-p.435*, 3-p.034** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻14「郭嘉伝」裴注引『傅子』:曹操はまた郭嘉を追悼して、「哀しいかな、痛ましいかな、惜しいかな」と言った。2-p.436*, 3-p.034** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻14「郭嘉伝」:曹操は荊州から帰還したが、巴丘においては疫病に遭い、船を焼かれた。嘆息して、「郭嘉がいれば、私をここにまで至らせることはなかったのに」と言った。2-p.435*, 3-p.034** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻14「程昱伝」:曹操が荊州を征伐し、劉備は呉に逃げた。論者は孫権はきっと劉備を殺すだろうと考えたが、程昱は次のように推量した。「孫権は即位したばかりでまだ海内に畏れられてはいない。曹操は天下に無敵で、荊州を奪ったばかりなのに、その威力は江表を震え上がらせている。孫権は謀略に優れてはいても、一人で事に当たることはできない。劉備には名声があって、関羽や張飛はどちらも万人の敵だから、孫権はきっと彼らの力をもとにして我々を防御するだろう。困難が解消されれば勢力は二つに分かれるだろう。劉備はこのことをもとにして成功するだろうし、また捉えて殺されることはできないだろう」と。孫権は果たして多くの兵を劉備に与えて曹操を防御した。この後、中原は次第に平定され、曹操は程昱の背中を叩いて言った。「兗州で敗れたとき、君の意見を用いなかったら、私はどうしてここまで来れただろう」と。宗人は牛酒を奉って大いに酒宴を開いたが、程昱は、「足るを知れば辱められず。私は以て退くべきだ」といい、自ら上表して兵を返還し、門を閉じて外出しなくなった。2-p.428*, 3-p.018** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻13「王朗伝附王粛伝」裴注引『魏略』:(隗禧、世々単家。初平中、南のかた荊州に客たり。)曹操は荊州を平定すると、隗禧を召して軍謀掾とした。2-p.422*, 2-p.518** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻12「司馬芝伝」:(司馬芝は荊州に難を避け、孝子であるために賊からも害せられなかった。)曹操は荊州を平らげると、司馬芝を菅県の長官とした。2-p.386*, 2-p.433**