2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻35「蜀書・諸葛亮伝」:諸葛亮、孫権を説得する中で、曹操軍が遠来のために疲弊していること、北方人は水戦に習熟していないこと、曹操に付いた荊州の民は必ずしも心から服しているのではないことを言う。4-p.915*, 5-p.111** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻32「蜀書・先主伝」:曹操は江陵が先に先主(劉備)に取られることを恐れ、軽装備にして襄陽へやってきたが、劉備がすでに通り過ぎたと聞いて、精鋭の騎馬五千を率いて追いかけた。劉備は妻子を捨て、諸葛亮、張飛、趙雲らと敗走、曹操は大いにその兵士や軍事物資を獲得した。その後、劉備は諸葛亮を通じて孫権と手を結び、赤壁において曹操の軍を大いに破った。曹操の軍は疫病のために多くの死者を出し、敗退した。4-p.878*, 5-p.041** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻35「蜀書・諸葛亮伝」:(劉備は樊で劉琮が曹操に対して降伏したことを聞き、衆を率いて南行)諸葛亮と徐庶は並び従い、徐庶の母が曹操軍に捕らえられた。徐庶は劉備のもとを去って、曹操のもとへ赴いた。4-p.914*, 5-p.109** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻32「蜀書・先主伝」裴注引孔衍『漢魏春秋』:劉琮が曹操軍に投降しようとしたとき、劉備に告げることができず、劉備もこのことを知らなかった。しばらくして劉備は使者を派遣して劉琮に問わせた。劉琮は宋忠を派遣して劉備に伝えさせた。このとき、曹操は宛まで来ていて、劉備はたいへん驚き、宋忠に対して怒ったが、ある者が劉琮や荊州の人士を連れて南の江陵へ行くことを進めたが、劉備は、劉表への恩義に背くわけにはいかないと答えた。4-p.878*, 5-p.040** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻35「蜀書・諸葛亮伝」裴注引『魏略』:劉備が樊城に駐屯していたとき、曹操はちょうど河北を平定しようとしていたが、諸葛亮は次には荊州が打撃を受けるとわかっていた。だが、劉表は軍事に疎い。そこで諸葛亮は北へ赴いて劉備に会見したが、すぐには相手にしてもらえなかった。諸葛亮は劉備に、袁紹を曹操と比べ、曹操を劉備と比べてどうかと問いかけた。4-p.913*, 5-p.107** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻32「蜀書・先主伝」:曹操は南に劉表を征伐しようとしたが、たまたま劉表が没し、その子の劉琮が使者を派遣して投降を申し入れてきた。劉備は樊に駐屯していて、曹操がやってくるのを知らず、(曹操軍が)宛までやってきてやっと耳にし、その衆を率いて去った。4-p.877*, 5-p.038** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」裴注引皇甫謐『逸士伝』:汝南に王儁あり。曹操が無官であった時、特に儁を愛し、儁もまた曹操のことを治世の手腕があると称揚していた。袁紹と袁術が母を喪って汝南に帰ってきた時、儁は曹操とともに参列した。参列者は三万人。曹操は外で儁に密かに、「天下は乱れようとしている。乱を為す中心人物はきっとこの二人だ。天下を救い、百姓のために命を請いたいとするなら、まずこの二人を誅するのでなければ、今にきっと乱が起こるだろう」と語った。儁は「もし君の言うとおりなら、天下を救う者は、君をおいていったい誰か」と言い、顔を見合わせて笑った。(儁は物静かで賢明な人柄。州郡三府の命にも応ぜず、武陵に退居したが、彼に付き従う者が一百余家もあった。皇帝が許に都を置いたとき、再び召し出されたが、また就かなかった。劉表が袁紹の強いのを見て、密かに袁紹と結ぼうとした時、儁は劉表に、「曹操は天下の英雄で、きっと覇道を興し、(斉の)桓公・(晋の)文公の功績を継承することができるでしょう。今、近きを捨てて遠きに就くなら、もしある日突然に事変が起こった時、はるか北方に救援を求めても、それは難しいでしょう」と。劉表は従わなかった。儁は武陵で六十四歳の天寿を全うした。曹操はこれを聞くと悲しみ、荊州を平らげた時には、自ら江に臨んで喪を迎え、改めて江陵に葬って、先賢として表した。1-p.31*, 1-p.068** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」裴注引衛恒『四体書勢』序:…(楷書について)…霊帝が書道を好むに至って、世の中には多くこれを能くする者が出たが、中でも師宜官は最も巧みで、非常にその能力を誇り、書をしたためるたびに、その札を削り取ったり焼いたりして(書法を盗まれないようにした)。梁鵠は版をたくさん作って彼に酒を飲ませ、酔っ払ったところを見計らってその札を盗み、ついに書道を究めて選部尚書となった。時に、曹操は洛陽の令となりたかったが、鵠は彼を北部都尉とした。鵠は後に劉表の下に身を寄せたが、荊州が平定されるに及んで、曹操は鵠を探した。鵠は恐れ、自ら縛して出頭した。(曹操は)彼を軍の仮司馬に任命し、秘書に所属させ、書をもって力を発揮させた。曹操は常にそれを帳の中に掛けたり、釘で壁に掛けたりして愛玩し、師宜官に勝ると評価した。……魏の宮殿の題署は、みな鵠の書である。1-p.31*, 1-p.068** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻11「田疇伝」:荊州征伐から帰還すると、曹操は田疇の功績がことさらにすばらしかったことを思い出し、以前に田疇の辞退を許したことを恨みに思って、「これは一人の人間の志を成就させてやったのだが、王法大制にもとることになる」と言って、再び前の爵位で田疇を封じようとした(同伝裴松之注に引く『先賢行状』に曹操の命を載せる)。田疇はあくまでも固辞したが、曹操は聞き入れず、引き留めて官に任命しようとすること四度に及んだが、田疇は最後まで受けなかった。ある役人が、田疇の狷介さを弾劾したが、曹操は躊躇した。そこで、曹丕や大臣たちに議論させた。曹丕、荀彧、鍾繇は、田疇の願いを聞き入れるのがよいと判断したが、曹操はそれでも田疇を侯にしたいと思った(同伝裴松之注に引く『魏書』『魏略』に、彼らの議論を載せる)。田疇はもともと夏侯惇と仲がよかったので、曹操は夏侯惇を通じて田疇を説得したが、それでも屈服しなかったので、議郎に任命した。2-p.343*, 2-p.319** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻11「張範伝」:曹操が荊州から帰還する時、張範は陣中で会見できて、議郎・参丞相軍事に任命され、たいへん重んじられた。曹操が征伐する時は、常に張範と邴原とを留めて、曹丕と留守を守らせた。曹操は曹丕に、「必ずこの二人に相談して行動するように」と言い聞かせた。曹丕は、子や孫としての礼をもって彼らに接した。2-p.337*, 2-p.307**