2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻11「管寧伝」裴注引『先賢行状』:曹操は王烈を何度も召し寄せたが、遼東では彼に代わって言い訳をして行かせなかった。建安二十三年に病で亡くなった。2-p.356*, 2-p.352** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻11「管寧伝」:(王烈は、邴原や管寧以上に名声があった。公孫度の長史をやめ、公務に就けないよう身を汚すために商売をした。)曹操は丞相掾に命じたが、命が届かないうちに亡くなった。2-p.355*, 2-p.349** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻12「崔琰伝」:曹操が丞相となると、崔琰はまた東西の曹の掾となり、徴事となった。2-p.368*, 2-p.391** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」裴注引『先賢行状』:袁術が皇帝を僭称したとき、徐璆に上公の地位を授与しようとしたが、徐璆は屈せず、袁術の死後、その玉璽を漢王朝に届け、衛尉太常を拝命した。曹操は丞相となると、官位を徐璆に譲った。1-p.30*, 1-p.067** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」裴注引『献帝起居注』:太常の徐璆を使者に派遣して丞相の印綬を授けさせた。御史大夫は中丞を部下に持たず、長史一人を置いた。1-p.30*, 1-p.066** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻2「武帝紀」:漢王朝は三公官を廃止し、丞相・御史大夫を置いた。六月、曹操を丞相とした。1-p.30*, 1-p.066** 2020年12月08日 建安13年(208)54歳:巻1「武帝紀」:正月、曹操は鄴へ戻り、玄武池を作り水軍を訓練した。1-p.30*, 1-p.066** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻54「呉書・呂蒙伝」:初め、魯粛らは曹操がまだ健在で、災禍は始まったばかりなので、関羽と協力し合い、ともに魏に敵対する関係を失ってはならないと思っていたが、呂蒙は襄陽を占拠し、関羽を退けるべきを孫権に説いた。孫権が徐州の奪取を諮ると、呂蒙は、曹操は袁氏を破ったばかりで問題なく勝てるだろうが、また奪い返されるだろうから、ここは関羽を破り、長江全域を手中にするのがよい、と答えた。5-p.1278*, 7-p.098** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻35「蜀書・諸葛亮伝」:先主(劉備)は、徐庶に推薦された諸葛孔明を訪ね、天下の趨勢を問うた。諸葛亮は、「曹操は袁紹と比べて、名は微で衆は少なかったが、曹操は袁紹に勝った。それは天の巡り合わせというものではなく、人の謀によるものだ。曹操は今百万の衆を擁し、天子を擁して諸侯に命を下しているから争えない……」と評した。4-p.912*, 5-p.105** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻17「張郃伝」:柳城を討伐するとき、張遼とともに軍の先鋒となり、功績により平狄将軍に移った。2-p.525*, 3-p.228**