2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻17「于禁伝」:于禁は、張遼・楽進・張郃・徐晃とともに名将とたたえられ、曹操の征伐にはいつも前後に付き従った。于禁は、軍を統率すること厳正で、賊の財物を得ても私物化することがなかったので、恩賞は特に手厚かった。だが、法でもって下々の衆を統御するので、あまり人々の心を得ることはなかった。曹操は朱霊のことを常々恨みに思っていたが、于禁の威厳でもってその陣営を奪還し、朱霊を于禁の監視下に置かせた。2-p.523*, 3-p.225** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻17「張遼伝」:荊州が未だ定まらないので、曹操は張遼を派遣して駐屯させた。また、陳蘭・梅成が氐の六県に拠って反したので、曹操は于禁・臧覇らを成討伐へ、張遼に張郃・牛蓋を監督させて蘭討伐へ向かわせた。張遼は武功を上げ、曹操は大いにその業績を評価した。2-p.518*, 3-p.214** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻17「張遼伝」裴注引『傅子』:曹操が柳城を攻めようとしたとき、張遼はこれを諌め、許の天子をおいて遠征することの非を説いた。2-p.518*, 3-p.214** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻17「張遼伝」:袁尚を柳城に伐つとき、卒が捕虜と出会った。張遼は曹操に戦うように勧め、曹操はその気力をほめて、張遼に指揮を任せた。2-p.518*, 3-p.214** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻8「張繍伝」裴注引『魏略』:曹丕、張繍がしばしば請願の為に会いに来るので、怒って「君は私の兄を殺したのに、どの面下げて人に会いに来るのだ」と。張繍は不安になり、自殺した。1-p.263*, 2-p.124** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻23「楊俊伝」:曹操は楊俊を曲梁長とし、更に丞相掾属とした。3-p.663*, 4-p.028** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻23「常林伝」:并州刺史の高幹が常林を表して騎都尉としたが、林は辞退した。後に、刺史の梁習が常林・楊俊・王淩・王象・荀綽を推薦し、曹操は彼らを皆県長とした。3-p.659*, 4-p.018** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻15「梁習伝」裴注引『魏略』:……梁習の蛮人への対処の仕方を記す。2-p.470*, 3-p.111** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻15「梁習伝」:并州が新しく領土内に入ると、梁習は別部司馬を以て并州刺史を兼任した。当時、并州は高幹の荒らしまわった跡で荒廃していたが、梁習が任務に就くと、礼を尽くして土地の指導者たちを招き、だんだんに推挙して幕府に出頭させ、次には成年男子を義勇兵として徴発した。命に従わない者は首を斬り、多くの者が降伏した。曹操はこれを嘉し、彼に関内侯の爵位を与え、并州刺史を本務とした。2-p.469*, 3-p.109** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻12「邢顒伝」:(曹操にお目通りし、柳城への先導を買って出て以降のこととして)曹操は邢顒を冀州従事に辟し、当時の人々は「徳行堂々たり邢子昂」と賞賛した。広宗の長に除せられたが、以前に仕えていた将軍が亡くなったために官職を捨てた。これを告発する役人がいたが、曹操は彼の旧君に対する篤い気持ちを評価し、罪に問わなかった。更に、司空掾となり、行唐の令に除せられ、人民に農業養蚕を進め、大いに教化した。2-p.382*, 2-p.425**