2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻12「毛玠伝」:曹操が柳城を平らげると、獲得した器物で、特に白い屏風と白い肘掛を毛玠に賜って「君には古人の風格があるから、君に古人の服を下賜する」と言った。2-p.375*, 2-p.408** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻11「邴原伝」裴注引『邴原別伝』:曹操が三郡の単于を北伐し、昌国において宴席を設け、士大夫たちをもてなした。酒酣となって、曹操が「自分が戻ったら、鄴の留守を守っていた諸君はきっと迎えに出てくるだろう。今日か明日、きっと全員が来るだろう。来ない者はただ邴原祭酒くらいだろうか」と言い終わらないうちに、邴原がやって来た。曹操は大いに驚き喜び、出迎え、「賢者とは全く測りがたい。自分は君はきっと来ないだろうと思っていたのに、自ら出向いてくださって、本当に待望の気持ちにそってくれた」と。謁見が終わって出ると、軍中の士大夫で邴原を訪ねる者が数百人もいた。曹操は怪しんでこれを問うと、居合わせた荀彧が、「ただ邴原を訪ねれば十分だからだ」と答えた。曹操が、「この人の名の重みは、士大夫の心も傾けるのか」というと、荀彧は、「この人は一代の偉人で、士人の精華である。曹操は礼を尽くして待遇されるがよい」と。曹操は、「もとよりこれは私のたっての願いだ」と。これよりいよいよ重んぜられるようになった。邴原は軍中で官職を歴任したが、ずっと病気で臥せり、実務は担当せず、曹操に会見することも稀だった。曹操の下した令に、「邴原は名は高く徳は大きく、清らかな規範をもって世に一人卓越した存在で、私の思い通りになるような人物ではない。聞くところによると張子(張範)はなかなか彼に学ぼうとしているようだが、彼のレベルに達した者は富み、彼に追随する者は貧しくなるのではないか」と。2-p.353*, 2-p.345** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻11「田疇伝」:田疇は一族三百余家を引き連れて鄴に移り住んだ。曹操は田疇に車馬・穀物・布帛などを下賜したが、彼は全部一族や知人たちに分け与えた。2-p.343*, 2-p.319** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻11「田疇伝」:曹操は、遼東より袁尚の首が送られてきた時、これを哭する者は斬首との令を出したが、田疇はかつて袁尚に召されたことがあったので出向いて弔った。曹操はこれも罪に問わなかった。2-p.343*, 2-p.319** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻11「田疇伝」裴注引『魏書』:曹操が田疇の辞退を容認した令を載せる。2-p.343*, 2-p.319** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻11「田疇伝」裴注引『先賢行状』:曹操が田疇の功績を表した文を載せ、この中でも、田疇が袁紹の数度に渡る招聘に応じず、曹操の招きには自ら進んで応じたことに言及している。2-p.343*, 2-p.318** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻11「田疇伝」:曹操が烏丸を伐つために北に向かった時、まだ到着しないうちに、真っ先に使者を派遣して田疇を召し出した。田疇はこれにすぐ応じた。門人が、「その昔、袁紹があなたを慕って礼を尽くして五度もやって来た時、あなたはこれに屈しなかったのに、今曹操の使者が一度やってきただけで、あなたはまるで間に合わないのを恐れでもするかのような様子なのはどういうわけか」と聞くと、田疇は笑って「これは君たちにはわからないことだよ」と答えた。かくして使者について曹操の陣営に到着し、司空戸曹掾に任命され、諮問された。曹操は翌日に令を下し、「田疇は私が下役人として使用すべきような人物ではない」として、すぐに茂才に挙げられ、県令に任命されたが、赴かず、軍に従った。時に、夏の大雨のために道がふさがれていたが、田疇は曹操に、それを逆手にとって敵を攻めることを進言、勝利に導いた。論功行賞で、亭侯に封ぜられ、邑五百戸を与えられたが、田疇はもともと困難な状態から逃亡して衆を引き連れてこの土地にやってきたのに、それを利用したようなことになるのは不本意として固く辞退、曹操はその思いを知って、その辞退を許可した。2-p.342*, 2-p.316** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻9「夏侯惇伝」裴注引『魏書』:曹操が柳城を討とうとした時、領軍の史渙は韓浩とともにこれを諌めようとしたが、韓浩は我が軍の勝算を述べ、私とあなたとは中軍の主なのだから、衆の志気を削ぐようなことを言ってはいけない、と言った。かくして柳城を破り、中護軍となり、配下に長史・司馬が置かれた。1-p.269*, 2-p.143** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻10「荀攸伝」裴注引『魏書』:曹操は柳城から帰還する時、荀攸の宿舎を訪れ、彼の前後の功績を褒め称えて「今天下のことはほとんど定まった。私は賢明なる士大夫とともにその功労をねぎらいたい。昔、漢の高祖は張良に自分で邑三万戸を選ばせたが、今私もまた君に封土を選んでもらいたい」と。2-p.324*, 2-p.275** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻9「夏侯惇伝」:(曹操が朝廷に推して)夏侯惇のこれまでの功績を録して、邑千八百戸を増封し、前の二千五百戸に併せることとした。1-p.268*, 2-p.139**