2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻6「劉表伝」裴注引『零陵先賢伝』:劉先は、許に赴いて曹操に会い、劉表が荊州で天地の祭祀を行う理由を問われ、朝見しようにも群凶が邪魔をするからだと答え、その群凶の中に曹操も含めた。曹操は、これを聞いて黙り込んだ。劉先は武陵太守に拝せられた。1-p.216*, 1-p.519** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻14「郭嘉伝」:曹操は、「ただ郭嘉だけが私の意図を心得ている」と言っていた。柳城から帰還して病がひどくなると、曹操は何度も様子を聞きに使者を遣った。亡くなって、荀攸らに、「諸君はみな私と同年代だが、郭嘉は最年少だった。天下平定が終わったら、後のことを託そうと思っていたのに、中年で夭折するとは」と言い、かくして郭嘉の功績を讃える上表(『魏書』にも曹操の上表文を載せる)をした。2-p.435*, 3-p.032** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:その時は寒くしかも旱魃で、二百里の間、水がなく、軍隊の食料も乏しかったので、馬数千匹を殺して食糧とし、また地面を三十余丈も掘ってやっと水を得た。帰還してから、前に諌めた者を報告させたが、衆はその理由がわからず、皆恐れた。曹操は彼らを厚く賞して、「私の前の出征は、済んでのところで助かった。勝利を得たとはいえ、それは天の助けがあったからであって、これを常例とするわけにはいかない。諸君の諌めは、万安の計だ。だからここに賞するのだ。これからも進言を憚ってはならぬ」と言った。1-p.30*, 1-p.066** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻1「武帝紀」:十一月、曹操軍が易水に至ると、代郡烏丸族の行単于普富盧、上郡烏丸族の行単于那楼がその名王を引き連れて祝賀にやってきた。1-p.30*, 1-p.066** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻1「武帝紀」:その初め、遼東太守の公孫康は、中央から遠く離れた所にいるのを頼みに服従していなかった。曹操が烏丸族を破ると、ある者が曹操に、彼を征伐すれば、袁尚兄弟は虜にできる、と進言した。曹操は、「私は公孫康に袁尚・袁煕の首を送ってよこさせようとしている。兵を煩わせることはない」と言った。九月、曹操は兵を率いて柳城から帰還し、公孫康はすぐに袁尚・袁煕及び速僕丸らを斬って、その首を届けてきた。諸将のある者がそのわけを問うと、曹操は、「彼はもとから袁尚らを恐れていた。私が緊迫した態度で臨めば力を合わせるだろうが、こちらの出方を緩めれば自ら事を図る。事の勢い上、自然そうなるのだ」と言った。1-p.29*, 1-p.065** 2020年12月08日 建安12年(207)53歳:巻1「武帝紀」:五月、曹操軍は無終に至った。七月、洪水で沿海の道は不通となったが、田疇が道案内を申し出て、曹操はこれに従った。軍を率いて盧竜塞を出たが、塞外の道は不通となっていたので、五百里ほど山を掘り谷を埋め、白檀・平岡を経て、鮮卑族の領土を横切り、柳城を目指して東に向かった。二百里手前まで迫ったところで、敵はやっとこれを察知した。袁尚・袁煕は蹋頓・遼西単于の楼班・右北平単于の能臣抵之らとともに数万の騎兵を率いて迎え撃った。八月、白狼山に登り、兵卒が敵と遭遇したが、敵勢は甚だ盛んだった。曹操の軍は、荷車は後方にあり、よろいを着ている者は少なかったので、左右の者たちは皆恐れた。曹操は高みに登り、敵軍の隊列が揃っていないのを見ると、大いに兵を放ち、張遼を先鋒として出撃し、敵軍は総崩れとなった。蹋頓及び名王以下を斬り、胡族・漢族で投降した者は二十余万人もいた。遼東単于の速僕丸及び遼西・北平の諸豪は、その同族の人々を見捨てて、袁尚・袁煕とともに遼東に逃げ、その衆はまだ数千騎残っていた。1-p.29*, 1-p.064** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻14「郭嘉伝」:曹操が袁尚及び三郡の烏丸を征伐しようとした時、多くの臣下は、劉表が劉備を使って許を襲い曹操を討伐するのではないかと懼れたが、郭嘉は、「胡は遠方にあることを恃んできっと曹操の軍に対して備えをしていないだろうから、勝てる。袁紹は民に恩を与え、その子の袁尚兄弟は存命している。今四つの州(青・冀・幽・并)の民は威力をもって従わせているだけで、徳を施すことはまだしていないから、これを差し置いて南征すれば、袁尚は烏丸を根拠にして、その死んだ主の臣下を招くだろう。胡人が一度動けば、民もこれに応じ、烏丸の高望みの気持ちを引き起こし、青州・冀州の土地の保持も危うくなるだろう。劉表は座談の客に過ぎず、自ら劉備を御する力のないことは心得ているから大丈夫だ。国を虚しくして遠征することに憂いは無用だ」と言い、曹操はかくして烏丸征伐に向かった。烏丸征伐において、郭嘉は優れた謀略を進言した。2-p.434*, 3-p.031** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻32「蜀書・先主伝」裴注引『漢晋春秋』:曹操が柳城から帰還したとき、劉表は劉備の進言を用いなかったことを後悔したが、劉備はチャンスはまた到来するから、そのときに応じれば後悔するにはあたらない、と言った。4-p.877*, 5-p.039** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻32「蜀書・先主伝」:曹操が烏丸を征伐しようとしたとき、劉備は劉表に許を襲撃するように説いたが、劉表はこの意見を用いることができなかった。4-p.877*, 5-p.038** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻1「武帝紀」:曹操が北征して三郡の烏丸賊を伐とうとした時、諸将は皆、「袁尚は亡命者に過ぎず、夷狄は貪欲で親愛の情はないから、どうして袁尚のために働くだろうか。今、夷狄の地に深く入って彼を征伐するとなると、劉備はきっと劉表を説得して許都を襲撃するだろう。万一事変が起こったら、後悔しても遅い」と言った。ただ郭嘉だけは、劉表は劉備を任用することはできないと予測し、曹操に征伐に出向くよう勧めた。1-p.29*, 1-p.064**