2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻1「武帝紀」裴注引『世語』:曹操は漢中から洛陽に至って、建始殿を建てるのに、濯龍祠の木を伐ると、木から血が流れ出た。1-p.53*, 1-p.117** 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻1「武帝紀」:庚子(二十三日)、王は洛陽にて崩御、年は六十六歳だった。1-p.53*, 1-p.117** 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻36「蜀書・関羽伝」裴注引『呉歴』:孫権は関羽の首を曹操に送り、曹操は諸侯の礼をもって葬った。4-p.942*, 5-p.172** 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻36「蜀書・関羽伝」裴注引『蜀記』:孫権は関羽とその子の平を捕獲し、関羽を活かして劉・曹に対峙しようとしたが、左右の者は、「狼子は養うべからず、後に必ず害を為す。曹操はすぐに彼を除くことができず、自ら大きな災いを招くことになって、許の遷都まで議論するに至った。どうして生かしておけようか」と。かくして斬った。……裴松之はこの記事の信憑性を疑う。4-p.942*, 5-p.172** 2020年12月08日 建安25年(22066歳:巻1「武帝紀」:春正月、洛陽に至る。孫権は関羽を攻撃して斬り、その首を送ってよこした。1-p.53*, 1-p.117** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻20「趙王(曹)幹伝」裴注引『魏略』:趙王(曹)幹は、もと陳妾の子だったが、生まれてすぐに(三歳の頃)母を失ったので、曹操は王夫人に養育させた。幹が五歳の時、曹操の病気が重くなり、曹操は太子(曹丕)に面倒を見るように遺言した。太子はこれにより、他の兄弟よりも幹に目をかけた。幹は幼いためにいつも文帝をお父さんと呼んだが、文帝は幹に、「私はお前の兄なんだよ」と言い聞かせた。文帝はそのような幹の様子を哀れんで、いつも涕を流した。2-p.586*, 3-p.358** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻58「呉書・陸遜伝」:陸遜が(関羽の警戒を解くために)関羽に送った書簡に、曹操は悪賢く、関羽に負けた悔しさから、困難をも省みず、衆を増やしてその野望をたくましくしている、と。5-p.1345*, 7-p.269** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻47「呉書・呉主伝」裴注引『魏略』:孫権は梁寓を遣って曹操の様子を望見させた。曹操は掾としたが、まもなく南へ帰らせた。5-p.1121*, 6-p.085** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻47「呉書・呉主伝」:曹操は孫権を表して驃騎将軍とし、荊州牧を兼任させ、南昌侯に封じた。孫権は梁寓を遣って漢に貢物を奉った。5-p.1121*, 6-p.085** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻18「許褚伝」:曹仁が荊州から帰還した際、曹操がまだ出ていない時に入って殿外で許褚と会談しようとしたところ、許褚はこれを断った。曹操はこれを聞いていよいよ彼を厚遇した。2-p.543*, 3-p.261**