2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻10「荀攸伝」:令を下して大いに論功行賞を行った時、曹操は「忠正密謀もて内外を鎮撫したのはまず荀彧、次に荀攸だ」と称揚し、荀攸に増邑四百、中軍師に転任させた。2-p.324*, 2-p.275** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操の令に言う。「昔、趙奢や竇嬰は将軍となるや千金を下賜されたが、一朝にしてこれをばら撒き、だからこそ大いなる功績を上げ、永遠の名声を獲得した。私はその文章を読んでいつもその人柄を慕ったものだ。諸将士大夫とともに討伐に従事し、幸いに賢人はその知謀を出し惜しみせず、兵士たちはその力を出し惜しみしなかったから、暴乱を平定することができた。それのに私は身の程知らずにも戸邑三万もの恩賞を戴いた。竇嬰が金を散じた義を追慕し、今私が受領している租税を分けて諸将や掾属、そして以前陳・蔡の守備に当たった者たちに与える。皆の苦労に報いて、大いなる恩恵を独り占めしないようにしたいと思う。戦死した者の孤児に等級を付け、租穀を彼らに与えよ。もし豊作で用足しに十分で、租や献上物が全部入ったら、大いに皆と共にこれを享受しよう」と。1-p.29*, 1-p.064** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻1「武帝紀」:二月、曹操は淳于より鄴へ戻った。丁酉(五日)、次のような令を発した。「私は義兵を起こして暴乱を誅伐し、今に至るまで十九年となったが、征伐すれば必ず勝利を収めた。これはどうして私の功績であろうか。賢明なる士大夫の力があったからこそである。天下はまだ完全に平定されてはいないが、私はぜひとも賢明なる士大夫諸君とともにこれを平定したい。それなのにその手柄による報酬を一人で享受するというのでは、私はどうして落ち着いていられよう。それ論功行賞を速やかに行うように」と。そこで、功臣二十余人を列侯に封じ、その他の者にも、功績に従って順に封爵を授け、戦没者孤児に対しても、それぞれ軽重の差をつけて恩賞を与えた。1-p.28*, 1-063** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻23「趙儼伝」:于禁・楽進・張遼らはそれぞれの気に任せて思いのままに動き、協力しないことが多かったので、趙儼に三つの軍の参軍を兼任させた。3-p.668*, 4-p.040** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻17「楽進伝」:建安十一年、曹操は漢帝に上表し、楽進・于禁・張遼の武人としての功績を称揚し、論功行賞を願い出、于禁は虎威、楽進は折衝、張遼は盪寇将軍となった。2-p.521*, 3-p.220** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻24「高柔伝」裴注引『魏氏春秋』:高柔は法の適用が非常に公平適正で、朝から晩まで非常にまじめに働き、文書を抱えて眠るほどだった。曹操はある晩にお忍びで諸吏を視察した時、高柔を見て哀れに思い、自分の裘を脱いで柔にかけてやった。高柔はこれにより辟せられた。3-p.683*, 4-p.075** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻24「高柔伝」:高幹は降伏したのにまもなく并州に拠って叛いた。高柔は自ら曹操に帰順したが、曹操は事にかこつけてこれを誅伐しようとして刺奸令史としたが、その仕事ぶりがすぐれていたので、辟して丞相倉曹属とした。3-p.683*, 4-p.074** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻16「杜畿伝」:曹操が河北を平定すると、高幹が并州で反乱を起こした。その時、河東太守の王邑が朝廷に召され、河東の衛固・范先は王邑に請うのを名目としながら、実は高幹と通じていた。曹操は荀彧に、この混乱を収めることのできる人物の推薦を求めた。荀彧は杜畿を推薦した。かくして、杜畿は河東太守となった。衛固らの兵が陝津を絶って杜畿は渡れなかった。曹操は夏侯惇を派遣したが、杜畿はこれを待たず、知略でもって平定した。2-p.494*, 3-p.165** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻12「崔琰伝」:曹操が并州を征伐する時、崔琰を鄴に留めて、曹丕の教育係とした。ところが曹丕は狩にばかり現を抜かしていたので、崔琰は書簡を送り、『書』『春秋』『詩』『礼』を引用し、袁氏一族の敗北を持ち出しながら、狩猟を諌めた。曹丕はこれを受け入れた。2-p.368*, 2-p.390** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻14「董昭伝」:平虜渠・泉州渠の開鑿は、董昭の建議による。曹操は董昭を千秋亭侯に封じ、司空軍祭酒に栄転した。2-p.439*, 3-p.041**