2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻1「武帝紀」:(その初め)三郡の烏丸族は天下の混乱に便乗して、幽州を破り、漢族の民合計十余万戸を略取した。袁紹はその酋長をみな単于に立ててやり、家の使用人の子を我が娘として、彼らに娶わせた。なかでも遼西単于の蹋頓は最も強力で、袁紹に厚遇されていたので、袁尚兄弟は彼のもとに身を寄せていたのだが、その蹋頓はしばしば国境を侵して入り、害を為した。曹操はこれを征伐しようとして、呼沲から泒水に入る渠を開鑿し、平虜渠と名づけた。また、泃河口から潞河に入る経路を開鑿して泉州渠と名づけ、もって海に通じさせた。1-p.28*, 1-p.063** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:十月乙亥令に、「そもそも世の中を治め人民を御するのに、補佐役を立てる上で、警戒すべきは面従ということだ。『詩経』にも「我が謀を聴用し、大悔無からんことを庶ふ」(大雅「抑」)とあるが、これは実に君臣の切なる願いである。私は責任の重い任務にあたって、常に中正を失うのではないかと懼れているが、このところ良き進言を聞かない。いったい私が人材を招くことに不熱心だったという過ちのためであろうか。これより以後、諸掾属の治中・別駕は、毎月一日、それぞれその分野の失策を進言せよ。私はそれを見よう」と。1-p.28*, 1-p.062** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻1「武帝紀」:八月、曹操は海賊の管承を討ち東へ向かい、淳于へ至ったところで、楽進・李典を遣ってこれを破り、承は遁走して海島へ入った。東海の襄賁・郯・戚を分割して琅邪に加え、昌慮郡を省いた。1-p.28*, 1-p.062** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻9「曹仁伝」:曹仁は、曹操が河北を平定し、壺関を包囲するのに従った。曹操は、城が陥落したら全員穴埋めにせよと命じたところ、連月陥落しなかった。曹仁は曹操に、「城を囲む時は、必ず生き延びるための道を示してやるものだ。今、公は必ず殺すと布告しているから、敵は必死で守りについているのだ。しかも城は堅固で食糧も十分だ。これを攻めればこちらの兵士がダメージを受けるし、守りに入れば戦いが長引くだろう。堅固な城の下で兵を駐屯させ、必死の敵を攻めるのは良計ではない」と説き、曹操はこれに従った。結果、城を陥落させることができた。曹仁の功績を録して、都亭侯に封じた。1-p.275*, 2-p.154** 2020年12月08日 建安11年(206)52歳:巻1「武帝紀」:初め、袁紹は甥の高幹を并州牧にしていたが、曹操が鄴を破ると、幹は投降し、刺史に任命された。幹は曹操の烏丸討伐を聞くと、州を挙げて反旗を翻し、上党の太守を捕らえ、兵を挙げて壺関口を守った。(曹操は)楽進・李典を遣ってこれを撃ち、幹は退却して壺関城を守った。この年の正月、曹操は幹を討ちに出た。幹はこれを聞くと、その別将を留めて城を守らせ、自分は匈奴に走って、単于に救援を求めたが、単于はこれを受け付けなかった。曹操は壺関を三ヶ月包囲し、これを打ち破った。幹はかくして荊州に遁走し、上洛都尉王琰がこれを捕らえて斬った。1-p.28*, 1-p.062** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻49「呉書・太史慈伝」:(太史慈は弓の名手)曹操は太史慈の名を聞きつけると、書簡を送り、文箱に入れて封をし、開けてみても何も書いてなく、ただ当帰という薬草が入っているだけだった。孫権が統治するようになって、太史慈は(劉表の従子の)磐をよく制圧できるということで、南方のことを任された。5-p.1190*, 6-p.276** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻26「牽招伝」:曹操が南皮に袁譚を破ると、牽招を軍謀掾とし、烏丸討伐に従わせ、柳城まで来ると、護烏丸校尉に拝した。鄴に帰還すると、遼東から袁尚の首が送られてきたので、馬市に掛けた。招はこれを見て悲しみ、首の下で祭を設けた。曹操はこれを義として茂才に推挙した。3-p.731*, 4-p.175** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻24「孫礼伝」:曹操が幽州を平定した時、孫礼を召して司空軍参謀掾とした。初め、戦乱の中で礼は母と生き別れになったが、同郡(涿郡)の馬台が礼の母を探し当て、礼は全財産を台に与えた。後に台が法に触れて死罪となった時、礼はひそかに台を逃してやり、自首したが、台は刺奸主簿の温恢のもとに出頭した。温恢はこれをよしとし、つぶさに曹操に伝えたところ、二人とも死罪を減じられた。3-p.691*, 4-p.091** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻17「徐晃伝」裴注引『魏書』:曹操が冀州を平定すると、朱霊に新兵五千人騎千匹を率いて許南を守らせた。曹操は朱霊に、「冀州の新兵はまだ不満を抱いているようだから、道義を以て寛大に対処すべきだ、そうでないと事変が起こるだろう」と戒めた。果たして謀反が起こり、朱霊はこれを斬ったが、曹操は親書を送ってこれを許した。2-p.530*, 3-p.238** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻17「張遼伝」:張遼が袁譚を伐ち、遼東の賊らを破って鄴に帰還すると、曹操は自ら遼を出迎え、盪寇将軍とした。2-p.518*, 3-p.214**