2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻14「劉放伝」:曹操が袁譚を南皮に破った時、書状で王松を招いた。劉放は松の為に曹操に答える書簡を代作し、その文は非常に美しかった。曹操はそれを善しとした上で、さらにその説を聞き、かくして劉放を辟したのである。建安十年、松とともにやって来た。曹操は大いに喜び、放に「昔、班彪は竇融に従って河西の功績を挙げたが、今の君はなんとこれに似ていることか」と言った。そこで、放を参司空軍事とし、主簿記室を経て、県令として地方に出た。2-p.456*, 3-p.081** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻12「邢顒伝」:(邢顒、もと田疇に従う。)曹操が冀州を平定すると、邢顒は田疇に、曹操の法令の厳格さを言い、自ら率先して曹操に遭いたいと告げた。かくして曹操にお目通りし、自ら率先して柳城に打ち勝つことを申し出た。2-p.382*, 2-p.424** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻11「張範伝」:曹操が冀州を平定すると、張範を迎えに使者を派遣した。張範は病気のために彭城に留まり、弟の承を曹操のもとにやった。曹操は彼を上表して諌議大夫にした。2-p.337*, 2-p.307** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻9「曹仁伝」:南皮を包囲する時、曹純(曹仁の弟)は議郎参司空軍事として虎豹騎を指揮して従った。袁譚が出撃してきて、多くの士卒が死んだので、曹操は攻撃を緩めようとしたが、曹純は、「……あちらは勝って驕っている。こちらは敗れて懼れている。その慎重さをもって驕慢に対するのだから、きっと克つ」と説いた。曹操はその言を善しとし、急に攻撃して譚を破った。1-p.276*, 2-p.157** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻8「公孫瓚伝」裴注引『魏略』:曹操は閻柔を甚だ愛し、いつも「自分はおまえを子どものように思っている。おまえも私を父のように思ってくれ」と言っていた。閻柔はこれにより五官中郎将曹丕に自らを託し、兄弟のようだった。1-p.247*, 1-p.081** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻8「公孫瓚伝」:南皮が破れると、閻柔は部下を引き連れて曹操に帰順した。三郡の烏丸族討伐に従い、その功を以て関内侯に封ぜられた。鮮于輔もその衆を引き連れて従った。1-p.247*, 2-p.080** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻1「武帝紀」:九月、次のとおり令を下した。「徒党を組むことは昔の聖人が悪んだところだ。聞くところによると、冀州の習俗では、父子が党派を異にし、互いに批評しあうとのこと。昔、直不疑は兄がいなかったのに世の人は彼を兄嫁を盗んだと批判したし、第五倫は三度親のいない娘を娶ったのに妻の父を鞭打ったと批判された。王鳳は権力を恣にしているのに谷永はかれを申伯になぞらえ、王商が忠心からの議論を述べているのに、張匡は彼を邪道と非難した。これらは皆、白を黒と言いくるめ、天を欺き君主をないがしろにするものだ。私は風俗を整えたいと思うが、先に述べた四者のごときが除かれないのを恥ずかしく思う」と。冬十月、公は鄴へ帰還した。1-p.27*, 1-p.061** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻1「武帝紀」:四月、黒山賊の張燕がその衆十余万を率いて投降、これを列侯に封ず。故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史、涿郡太守を殺し、三郡の烏丸族が鮮于輔を獷平にて攻撃。秋八月、曹操はこれらを征伐し、犢らを斬り、潞河を渡って獷平を救った。烏丸族は辺塞を出て奔走した。1-p.27*, 1-p.061** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻26「牽招伝」:曹操が袁譚を討伐しようとするとき、柳城の烏丸族は袁譚を援助しようとした。曹操は牽招に烏丸を治めさせようと柳城に派遣した。烏丸の峭王が、袁公と曹操といずれを正当とすればよいのかと問うと、牽招は曹操の正当性を説明した。3-p.730*, 4-p.173** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻18「臧覇伝」:曹操が袁譚を南皮に破ると、臧覇らは祝賀に集まった。臧覇が、その子弟や諸将の父兄の家族を鄴に行かせるように願い出た。曹操は、前漢の蕭何と高祖、後漢の耿純と光武帝との関係を持ち出しながら、その忠孝を褒めた。2-p.537*, 3-p.250**